日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録・満一歳の誕生日を迎えて

〇10月19日:孫が生まれて1年になる。

 10か月過ぎたころから、つかまり立ちするようになり、今は壁など何かを使って伝え歩きするようになった。まだまだ足元は不安定で、尻もちをつきながらまた立ち始める。

  足元が覚束ない最近のわたしと重なってくる。

 

 ヒトの特質として二足歩行があり、それとともに視野が広がり、遊ぶ対象や範囲も増えて、いろいろな思い、感情、心も豊かになっていくようだ。

 私のことを見ても、人にとって歩くということは、大したものだなと思っている。

 

 興味深いのは、うんちやおしっこでオムツを替えるとき、“たっち”しようと声をかけると、壁や何かにつかまって、こっちの足を上げようと声かけてトントントンたたくとあげ、次に別の足を声かけながらトントンすると足をあげて、オムツ交換をします。

 その時の妻との絶妙なやりとりは何とも言えない楽しいものだなと見ている。

 それは11か月過ぎたころからはじまり、妻はとても楽だといっている。

 

 ことばはまだまだだが、最初に覚えたことばが、“たっち”というのも面白い。

 

〇10月20日:今日は孫・花野(かの)の満一歳の誕生日

 孫の成長とともにわたしも何かが培われてきたように感じている。

 今は動きも活発になってきて、わが家にくると、遊ぶ・食べる・泣くなどどれをとってもそのエネルギッシュな力を感じる。

 あれあれ、おやおやどうなっているの、なんとかならないかなと思うこともある。帰った後は、かなり物が散らかっている。

 しかし、そのように見えるのは、長年にわたって身についたわたし自身の見方であり、食べること、泣くこと、遊ぶこと、どれをとっても健やかに生きている証ではないだろうか。

 ひとつひとつを見ていくと、確かめ確かめ考えている様子もうかがわれて、あるスパンをとると、変わってきているのも面白い。

 このことについては、孫や赤ちゃんに限らず、どのような人にも、自分の見方を外しあるいは距離をおき、じっくりみていくこと、待つということを大事にしていきたい。

 

※写真を含め自分の小さい頃の記録は全く残っていないのが気になっていた。逝去されたYさんが、ひ孫宛の手紙をのこしており、この方式はいいものだなと思っていた。誕生日に際して花野(かの)に手紙を書いた。

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〇じじから花野(かの)ちゃんへ

 

かのちゃん おたんじょうび おめでとう

あとどれぐらいしたら かのちゃんが これをよむことが できるのかわかりません
そのころ じじ(おじいちゃん)は いないかもしれません

えっ どこに いったかって?
それは おじいちゃんにも わかりません
そこは ひとが かならず いちどは ゆかねばならない ところですが
まだ かえってきたひとが いないので どういうところか わかりません

 

かのちゃんがうまれてから たのしいおもいを いっぱいしたのでおれいに このてがみを かいておくことにしました

 

おじいちゃんは かのちゃんのママ(おかあさん)の おとうさんです
かのちゃんのパパもママも そのまたおとうさんとおかあさん からうまれました
そのおとうさんもおかあさんも そのまたおとうさんとおかあさん からうまれました
そのようにして かぞえきれないひとのつながりから かのちゃんはうまれました

 

かのちゃんが ママのおなかにいるときに どんななまえにするか かんがえました
おんなのこだったら 花野(はなの)で、かのとよぶのが いいとおもいました

花野(はなの)は、あきになり くさばな(草花)が のはらいっぱいに さきほこっているようすをいい はいく(俳句)のせかいでは このんでつかわれる ことばです

 

そのひとつひとつは  いろいろなことをのりこえ あきになると かれんにさきます
またきびしいふゆを のりこえるための つぎのじゅんびをしていきます

おたんじょうびも いままでをよろこび また あすにむかって えがいていきます
かのちゃん うまれてきて ありがとう

 

・満一歳(まんいっさい) かのは花野(はなの)を かけめぐる

                   2019年10月20日 じじより