日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎私たちは「偏見の時代」を生きている(内田樹『寝ながら学べる構造主義』から)①

 

〇本書のまえがきで次のように述べる。

〈知性がみずからに科すいちばん大切な仕事は、実は「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。

 知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく「私は何を知らないか」を起点に開始されます。-----入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめることができるように差し出すことだと私は思っています。〉(p11‐12)

 

 本書を何度か読んでいるが、「人間はどのようにものを考え、感じ、行動するのか」というような、私たちふつうの人の日々の営みの本質的なありかたを分かりやすく問い続け、解明した著書で、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめながら、印象のある個所をアンダーラインならず、ノートに書き写した。

 

 本書第一章1「私たちは『偏見の時代』を生きている」で、次のように述べる。

〈私たちはつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらしさ、もっとも重要な「切り口」だからなのです。〉(p19)

〈構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。(p25)〉

 

 自分の属する社会集団、地域、時代、環境などによって偏ったものの見方をしているのではないだろうかという自分に対する問いかけは、大事ではないだろうか。

 私はある理想を掲げた組織に長く所属していたので、上記のことはなおさら思う。

 社会心理学用語で認知的不協和理論がある。

 知識の矛盾状態における行動の傾向について、フェスティンガーが展開した理論。 信念・意見・態度などを含む我々の知識を<認知要素>と呼ぶ。自分の中にあった<認知要素>と、新たに与えられた<認知要素>の情報が矛盾する状態が<認知的不協和>である。人はこの状態を不快に感じ、この矛盾を解消しようとする。このとき、自分にとって変えやすいどちらか一方の<認知要素>の内容を変えることで、協和した状態へ導こうとする傾向がある。

 しかも、特殊な組織への加入は、それまでの生活方式とはなはだ違った状況に出会い、当人が認知的不協和を解消しようとする結果、組織への主観的評価を高めると考えられている。

 このことは特殊な集団への帰属に限らないだろう。普段よく交流している人のなかで、あるいは、自分と全く違う見方の人などと出会ったとき,考え方の違いに限らず、感情、行動を含めた心身が周りと、その人とそぐわなくなり、落ち着かない気分から何とかのがれようとするのは、普通の人のあり様ではないかと思う。

 

 人は直面していること、目の前で展開されていることを、現時点での自分のもっている見方や感情など〈身についた思い込み〉で解釈し、簡単にやり過ごすことも多いだろう。

 むろん、これは次々に入ってくる情報を、いちいちつぶさに考えることや戸惑いを少なくして、迅速に処理することで日常生活がスムーズにいくというメリットがある。

 一方、簡単にやり過ごすことで、日常の何気ないことに潜んでいる、おかしさ、不思議さへの発見に乏しく、見直ししたり、揺さぶられたりしながら、そのことを問うことをしないまま、マンネリ化した暮らしを続けることにもなる。また、一旦身についた見方、先入観からなかなか逃れられないデメリットがある。

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 私たちの言動を大きく左右する、「よい・わるい」、「正しい・間違い」の判断も、よく調べていくとその基準は時代や地域によって全く違った捉え方になったりする。「正しい」というのは「それが自分にとって心地いい」かどうかと言い換えてもいいぐらいだと思う。そのほうが精神的には安定するから、それを無意識に求めてしまう。自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、僕らは「正しい」と判断しやすい。

 

 普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいいくらいだ。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と言っている場合が多い。

「正しい・間違い」というのは、ほとんど無意識的に、個人的なあるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になっているのではないだろうか。

 

 正常・異常についても同じことが言えると思う。正常とは、社会の(圧倒的)多数のものによって受け入れられているような事態だと言い換えることができる。それに対して異常とは、社会の圧倒的多数者の目に、自分とは異なっているという違和感を覚えさせるものをいうのではないか。つまり、多数者にとって自然に思える事柄が正常な事態だとして無条件に前提されているがゆえに、それから少しでも外れた事態が、正常の反対としての異常として受け取られるのではないか。したがって、人によって、時代や地域によって、そのとらえ方は極端ともいえるほど違ってくる場合がある。

 

〈世界の見え方は、視点が違えば違う。だからある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、一九六〇年代のことです〉(p25)

 

 現代を生きる私(たち)は、さまざまな価値観が世の中に存在し、絶対的な善も悪も容易に区別することはできず、それぞれの価値観は相対的なものでしかないと思っている。西洋文明は先進的で優れており、未開の部族の文化は後進的で劣っているとは考えない。ある地域で紛争が起き武力衝突するとき、それぞれの勢力にそれぞれの立場があり、それぞれの言い分にも一理あるのではないだろうかと思う。

 このように現在の私は考えているが、この見方・考え方が構造主義による成果であることが、この著書を通して気づかされた。

 昨今の情勢を見る限り、そのような思考が現代人の間でどれだけ共有されているか、疑いたくなるようなニュースも多いが。

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 本書のあとがきで著者は次のようにいう。

 この著は、著者が20歳の仏文学生時代、構造主義の諸思潮が注目されていたが、それについての主著はどれもむずかしい概念をただむずかしい訳語に置き換えただけのもので、何を言おうとしているのか少しも分からなかった。当時の著者でもすらすら分かるような、「ふつうのことば」で書かれたフランス現代思想の解説書があったらありがたいと思っていた。

 それから幾星霜。人並みに世間の苦労を積み、「人としてだいじなこと」が何であるか、しだいに分かってきて、かつては難解と思われた構造主義者たちの「言いたいこと」がすらすら分かるようになり、落語に出てくる横丁の隠居の驥尾に付して、構造主義者の滋味深き知見を「横丁のみなさん」に説き聞かせようと思った入門書である。

なお、本書のもとになったのは、フランス現在思想や哲学についてほとんど予備知識がない平均年齢六十歳ぐらいの市民講座のための講義ノートだそうだ。

 

 構造主義の構想、構築に大きく参与した人たち(マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン)とその思索を紹介、解説しながら本書は展開する。その名前には馴染みはあるが、その思索について、ほとんど読んだことないか、触れたけれどよく分かっていないことが、内田氏のとらえ方を通してであるが、「ああ、なるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心しながら、ときにはどういうことだろうと思いつつ、自分に引き付けて考えていく面白さがあった。

 

※参照・内田樹『寝ながら学べる構造主義 』(文春新書、2002)