日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日々彦「詩句ノート」、福井正之『追わずとも牛は往く』から

〇福井正之『追わずとも牛は往く』第三章「夏 牛たち」ー乳牛との”格闘”より抜粋

「西守さん、うまく行かないのは牛が悪いと思ってるでしょう」

 彼は人事だがなにかあると牛舎の助っ人に入ることが多い。図星だった。自分はどこまでも牛の自発的な動きを援助しているつもりでも、どこか牛のせいにしている部分でまさにその理を裏切っていた。そうは気づく。しかしどうすればそれが解決できるのか見当がつかない。こういう時は、他の人の様子を観察するにかぎる。

 たまたま学校の休みに手伝いに来ていた学育の中学生が、スムースに牛を移動させるのに丈雄はショックを受けた。そういえば前に見かけた若者組の結香ちゃんも牛の捌き方は全くスムースだった。その時はまあ若いけどベテランだからなあと納得していた。が、これはどうも力ではなさそうだ。彼らはみな非力だ。また経験とか、慣れとかいうものもあるだろうが、なにかもっと人間の生来的柔軟さのようなものが働いているような気がしてならない。

 それに気づくと丈雄は絶望の淵にまで追いやられたようにやるせなかった。おれは思い通りにならないとすぐ性急に手を出し、牛の手助けのつもりが、牛を引きまわしている。どうもおれには、ほんの少し待ってみる、それもほんの一呼吸でいい、それができないようだ。なぜできないか。どこかで自分の力でやれる、あるいはやるしかないと思い込んでいる節がある。でも始めっからやれないと決まってしまえば、そしてそこでなんとかしようとすれば……

 ここで丈雄は牛舎の入り口の「牛を観る 牛に聴く」の張り紙を想い出した。それはスローガンでもなんでもない実質だった。牛を待つ、そして待つだけでなく牛が瞬間瞬間何を望んでいるかを知ること、知るよりも感じること、それには見るよりも観ること、聞くよりも聴くこと。それがたぶん飼育者としての出発点なのだ。しかし……これもまた頭だけの了解だった。

 しかし解決の感覚は不意に訪れた。
 ある時牛の群れの中を、なにか牛以外のことに気をとられながら、ぼんやり歩いていた。たぶん寝不足で疲れがとれていなかったのだろう。牛が自分の傍をすいすいと通り過ぎていく。そして何気なく遅れないように、その牛の後ろについて歩き始めた。なにか自分が牛の一頭にでもなったかのように感じた。あれっ、こりゃあ、調子がいい。牛がちゃんと自分の思い通りに動いているではないか……

 しばらくして気づく。そうではなかった。逆におれが牛の思い通りになっていたにすぎなかった。牛が変わったのではなく、自分が変わったのだ。つまりおれが牛と一つになっていたのだ。  自分が相手をなんとかしようとする意識性が働いている間は、おれがどんなに技術的に巧妙になっても、牛にとっては他者に過ぎなかったのだ。相手を知ろうとすることでなく、さらに感じとろうとすることでなく、相手に「なる」こと、相手と一体になること……

 そうか、この感触だ。この感触を忘れないでおこう。もっとも、この感触がいつ訪れるか分らない。少なくとも意識的な当為によって齎しうるものではないようである。しかし丈雄は、大きな楽しみを確実に一つ持てたような気がしてうれしくてならなった。

 

〇2018年四季折々(5月13日~19日)

(13日)・煩悩をひとまず脇に新茶汲む

  今朝のNHK俳句・題「新茶」で、「恍惚の母恍惚と新茶汲む」(愛知・稲垣長)、「病む妻の急須ふるへる新茶かな」(京都・渡辺実)、「十七の三女淹れたる新茶かな」(新潟・新開章一)などが紹介されていて、その背景、ドラマが思われるような句に印象に残る。

 義父の晩年期、寝たきりになり食事もあまりとれなくなっても、ベッドのわきに食卓をつくり、家族で一緒に食事をしていた。義父の「これは美味しいなー」という一言が出てくると、自分たちも何とも言えないあたたかな気持ちが出てきた。亡くなった朝「お茶は美味しいなー」といってほどなく息を引き取った。

 

(14日)・いきものの賑わふ天地夏に入る

 NHKスペシャル「人類誕生」第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」をみる

霊長類から人類誕生の過程で、現在の人間につながるホモ・サピエンスとネアンデルタール人の出会いと共存がテーマになっていた。屈強なネアンデルタール人が絶滅したことに対して、華奢なホモ・サピエンスが現在につながっていったのは、「実はその弱さにこそあったと考えられている。弱いからこそ、安全な狩りを行うことができる道具を生み出し、仲間同士で力を合わせる「協力」を高めたのだ。そうして人口を増やしていったことで、脳の進化が促され、ホモ・サピエンスは全く新たな力「想像力」を獲得したと考えられている。」と紹介されていた。

 人は根本的に”弱い“いきもの”であるとの視点から、人間関係の持ち方や己の生き方を見ていくことで、もっと違ういのちの光景が眼に入ってくるのではないだろうか。

 

(15日)・雲の峰見上げたとたん足もつれ 

 最近ふらつくことが多くなる。立ち上がるとき、急に立ち止まるとき、急な下り坂、下り階段など。そこで脳神経外科でMRIを受けた。頭・脳の写真画像診断からは、特に問題はないとの所見で、ひとまずほっとする。

 医者による話では、特に脳ドックなどは必要ではなく、足腰の筋力の衰え、バランス感覚の悪さ、平衡感覚の衰えなどが考えられるが、そこを日常生活で意識していくようなアドバイスを受ける。すでに意識していることではあるが。

 

(16日)・MRI検査雷鳴響く脳の中

 MRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴画像)は、強力な電波を使って、体内にある水分に作用して頭・脳の断層を撮影する。検査はベッドに横になり狭いトンネルの中に入り、時間は20分ほど、一定のリズムで道路工事現場の掘削ドリルが立てるような音など、いくつかの種類の音が順番に鳴り響く。あらかじめ調べていたこともあり、こんなものだと思っていたので、あまり変な感じはしなかった。その音量は100デシベルを超えていて、耳元で聞いていると凄まじい音である。放射線の影響がある「CT」などより安全性が確かめられているそうだ。

 

(17日)・長いものに巻かれ溺れて汗みどろ

 アメリカンフットボールの定期戦で、日大選手の悪質な反則行為によって関学大選手が負傷したことが大きな問題になっている。

 このことで、「自発的服従」(自分から進んで、他の命令または意思に従う)のことを思う。権力的な指導者や組織のリーダーたちによる言動から心理的な圧迫を受け、それに従ってしまうことをさす。

 権力的な指導者は自らの思惑(理念らしきもの)に従って、他を思い通りにしたくなる。それを受けとる方は、ほとんど考えずに、あるいは自ら進んで、ひどい場合には喜んで従ってしまう。また、その指導者を支えるような組織構造もあるだろう。

 今回のことは極端なケースと思うが、程度の大小はあっても、組織・集団は、このようになりやすい面もあるのではないだろうか。特に独特の理念や特殊な理想を掲げている集団の組織構造と構成員の関係では。

 

(18日)・(和歌山の馴染みの園の青山椒)山椒の芽小さきものにも魂のあり

 NHK ごご生 おいしい金曜日「山椒(さんしょう)の使いこなし術」をみる。

 知人が経営する「かんじゃ山椒園」が紹介されていた。N夫妻をはじめ皆さんの楽しそうな様子や地域社会に支えられているのが伝わってきて、妻ともども面白く見ていた。この山椒園は国際的にも知られていて、NHKテレビの案内では「日本一の産地で発見」とある。

 我家では香辛料としてしか使っていなかったが、いろいろな工夫によって「かんたん山椒オイル」など、さまざまな用途が紹介されていて、見ているだけでも美味しそうな感じがした。

 

(19日)・否という疑う自由夏怒涛 

 ものごとを自分の「意のままに」したくなる心の動きは何だろうかと思う。わたしの課題でもある。自分の意のままに身体がついていかないときに、ことさら「老い意識」がでてくる。

 自分に対してはひとまず置くとして、特に他を思い通りに動かそうとすることから、争いや不信感がうまれる。

 F氏の新刊『追わずとも牛は往く』とのタイトルは、この作品の核となる思考法と思う。意のままに牛を動かそうと格闘していたところから、あるとき、牛のあとをそのままついていく楽な自分を見出す。(p162)この発見から主人公の生き方、理想の持ち方がかわっていく。意味深長なタイトルの文学作品である。