日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「人間の人間たるゆえんは家族にあると考えている。」(山極寿一)

〇ダーウィンの進化理論以後、そもそも霊長類からヒトはいかにして生まれたかの根本問題に光が当たるようになり、戦後日本において霊長類学が再興されたことなどにより、様々のことが解明されてきた。

 

 その研究成果から、700万年の間に、霊長類から人類誕生の過程で、直立二足歩行‐道具の発明・使用‐身体の構造変化‐脳の発達と身体の進化に関しては一般的な見解となってきた。その身体の特徴とともに、家族の形成・一夫一妻‐仲間と協力する集団・共同作業‐心の進化・共感力‐分配・交換‐同情心・好奇心など過酷な自然条件の中で生き延びてきた大きな要因であるとする見方が強まってきた。

 

 つまり、ヒトになるための大きな三つの条件、直立二足歩行・家族の成立・コミュニケーションとしての言葉がそれぞれそれ絡み合いながら進化していき、現在の人類につながっていったらしい。

 

 特に、家族形成が人類進化の源流であり、一見そのように見える「種」はあるが、ある一定の期間だけで、生まれてから死ぬまで生涯にわたって家族であり続けるという形態は、人間の家族だけだといわれている。

 

 家族とは人間社会だけの普遍的な現象らしい。さらに人間の特徴は、単体ではなく複数の家族が集まって共同体を作る二重構造を持っていること。複数の家族を内包した共同体は人類だけの不思議な社会システムらしい。集団が巨大化し複雑化しても、家族という基本的な社会単位が崩れることなく存続し続けた事実があり、共同体を中心に、食物を共同で生産し、分け合って食べる。子育ても共同。家族単体ではできないから、共同で行なう。

 

 原初の人類の在りようから直ちに現社会や家族のあり方に結び付けることは留意する必要があるが、現在の家族を考えるうえで、その知見に学ぶことの多い山極寿一は次のことを述べている。

〈どうしてそんなにお節介になるかというと、共感力を高めて作り出したシンパシー(同情)という心理状態がもとになっている。

 同情心とは、相手の気持ちになり痛みを分かち合う心です。この心がなければ、人間社会は作れません。共感以上の同情という感情を手に入れた人間は、次第に「向社会的行動」を起こすようになります。

 向社会的行動とは、「相手のために何かをしてあげたい」「他人のために役立つことをしたい」という思いに基づく行動です。人類が食べ物を運び、道具の作り方を仲間に伝えたのも、火をおこして調理を工夫したのも、子どもたちに教育を施し始めたのも、すべて向社会的行動だろうと私は思います。

 大昔から人類は家族のために無償で世話を焼き、共同体の中では互いに力を出し合い、助け合っていたのでしょう。認知能力が高まったから、このような思いやりのある社会が作られたというよりは、その逆で、向社会的行動が人類の認知能力を高めたのだと思います。(山極寿一『「サル化」する人間社会』p161~162)

 

「向社会的行動が人類の認知能力を高めたのだと思います。」の箇所が印象に残る。また、向社会的行動は、直面する現実対処とともに明日に向けて描く、行動する力を強化することになったのではないだろうか。

 

 そして、人間の持っている普遍的な社会性について、次の三点をあげている。

(1)見返りのない奉仕をすること:人は自分を愛してくれる家族のもとで「見返りのない奉仕(献身的にしてあげる)」の精神を培い、その環境の中で「誰かに何かをしてあげたい」という気持ちが育っていく。その思いは家族の枠を超えて共同体にたいして、もっと広い社会に対しても広がっていく。

(2)互酬性(何かをしてもらったらお返ししたくなる):互酬性とは個人あるいは集団間で、贈与を受けた側が与えた側に何らかの返礼をすることによって、相互関係が更新・持続されること。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。

(3)帰属意識:自分がどこに所属しているかという意識を、一生持ち続ける。その帰属意識がアイデンティティの基盤になり、そこにたって、自分自身の行動範囲や考え方を広げていけることになる。人は相手との差異を認め尊重し合いつつ、きちんと付き合えるのはその基本に帰属意識があるという。

 

 現社会のいろいろな家族関係は、複雑な様相があるように思い、また、あまりにも社会性を単純化して捉えているように見える。

 

 だが、自分のことを振り返ってみると、家族(特に父母)や叔母などから一方的に何かをしてもらっていたなと思える。50歳すぎてから、ある共同体を離れ介護関係の仕事に携わるとき、養護学校のボランティア活動を立ち上げるときも、何か役に立つことをしていきたいなと考えての選択だった。

 今も、無理はしない程度に、何かをしてあげたい気持ち、贈答をしたくなるこころ、役に立つことをしていきたいことも、素直に見ていくとあるのではと思っている。

 ことさら社会性と言わなくても、手助けしたいこと、街中のゴミを拾う・汚れたものを片付けることなど、何の見返りも求めず、多くの人の心の中にあるのではないだろうか。

 

 そして社会性は、信頼が培われるような家族や質のよい人間関係のもとで、より育っていくのではないだろうかとも思えてくる。

  また、このような家族関係が広がっていくような社会になっていく道筋もあるのではないだろうか。

 

※参照:山極寿一『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル、2014)

 河合雅雄『サルからヒトへの物語』(小学館、2004)