日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日々彦「詩句ノート」、坪内稔典による金子兜太さんへの【追悼】

〇【追悼】金子兜太さん 現代俳句史でんと存在 俳人 坪内稔典

 「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」

 「どれも口美し晩夏のジャズ一団」

 「暗黒や関東平野に火事一つ」

 これらは若い日の金子兜太さんの句だが、表現やイメージが大胆で端的、ちまちましていない。

 現在でも突出して新しい。

 私が兜太さんに出会ったのは20代のころ、彼の著書「今日の俳句」「定型の詩法」などを読み、俳句を同時代の詩としてとらえる見方に共感した。俳句仲間といっしょに上京、勤務先の日本銀行を訪ねたこともある。コーヒーをおごってもらったが、デパートの屋上から飛び降りる覚悟で俳句をやれ、とアジられた。今になって思うと、それは兜太さんの俳句に向かう姿勢だった。

 五・七・五の小さな俳句は、その小ささへ俳人を閉じ込めがち。内向きにさせるのだ。兜太さんはその傾向に抗った。自由律や無季の句を認め、俳句史的には傍流の小林一茶や種田山頭火を研究したが、それらは俳句を広げようとする行動だった。

 2002年に「金子兜太集」全4巻が出た。この年、兜太さんは83歳だったが、そのころからは、俳句そのものよりも、「金子兜太」という存在の魅力が話題になり、その話題を拡大しながら98歳に至ったように見える。

 実は、私は少し困っていた。モーロクしかかったとき、俳人は新しい言葉を得てすごい句を作ることがある、というのが私の仮説だった。だが、兜太さんの言動は明瞭、モーロクの気配がいっこうになかった。

 「去年今年生きもの我や尿瓶愛す」

 「河馬の坪稔尿瓶のわれやお正月」

 右は2010年に発表した句。兜太さんは万物に命を認めるアニミズムを発想の基本にしたが、尿瓶にも命を感じている。次の句の「坪稔(ツボネン)」は私をさす。彼はなぜか私をツボネンと呼んだ。ツボネンの愛する河馬、兜太の愛する尿瓶は同格だ、というのがこの句である。

 兜太さんは母校の小学校で授業をした際、尿瓶を持ち込み、小学生にさわらせた。そのようすはテレビで放映された。

 「山枯れて女子小学生尿瓶覗く」

 「小学生尿瓶透かして枯山見る」

 「われの尿瓶を嗅ぎ捨てにして無礼かな」

 これらはその日を詠んだ作。小学生と尿瓶を介して命を通わせる兜太さんはすてきだ。もっとも、尿瓶を無視する無礼な子もいたし、眉をひそめた大人もいたのだろう。でも、尿瓶もまた命を持つ自分の同類だという見方を彼は堂々と押し通した。こういう兜太さんは、もしかしたらモーロク的生き物だったのではないか。

「合歓の花君と別れてうろつくよ」は80歳代の作。明治は子規、大正・昭和は虚子、敗戦後から平成の今日までは兜太さんが俳句史にでんと存在した。その兜太さんはときにうろつく人だった。うろつくよ、と率直に言う兜太さん、いいなあ。(寄稿:2018年2月26日 7時32分 産経新聞より)

                   ◇

〈毎日新聞「余録」:俳人の金子兜太さんは80歳を過ぎてから「立禅」を日課にするようになった。何かというと、亡くなった友人知己、恩師や先輩、肉親の名を次々に心の中で唱えるのだ。思い出も頭の中を断片的によぎっていく▲その数、120~130人、自分の中ではみんな生きているように思える。この立禅を30分近く行うと、その日の暮らしがすっきりと豊かな気分になったという。「死んでも命は別のところで生きている」。そう実感する毎日だった▲代表句の一つ「おおかみに蛍が一つ付いていた」は、ちょうどこんな死者たちへの呼びかけを始めたころの作になる。昔はオオカミがすんでいた郷里・秩父の山々に「いのち」を幻視した句には、「人間に狐ぶつかる春の谷」もある▲かつて自分の3要素は「戦争・戦場体験」「(勤務した)日銀での冷や飯」「俳壇の保守返り(への反発)」と語っていた金子さんだ。その反骨の上にも歳月は降り積もったが、戦争の記憶に根ざす反戦の闘志は終生変わらなかった▲「死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む」。餓死していく戦友から散骨を頼まれたことが何度もあった。当時はごちそうだったたくあんを今かみしめ、その無念に報いるべく自らを励ます。この戦後の初心を抱えたままでの旅立ちだった▲「老いてますます野性化」したとは作家の嵐山光三郎さんの金子さん評という。この世の目に見えぬ死者や生きものと自在に語り合った俳人が赴いたあの世では、今ごろ百数十人の宴がたけなわに違いない。(毎日新聞「余録」2018年2月22日 東京朝刊)〉

 

〇2018年四季折々(2月18日~2月24日)

(18日)・脳朧明るい疑念添えておく

 風景は自分のその時の気持ちの状態で見え方が変わってくる。「悲しい自分が見る風景は悲しい」となりがちになる。風景に限らず、おそらくすべて自分の思い方で見ている。客観性が問われる自然科学分野でも、「今の段階では」がついて回る。

 どこまでも自分の感覚であるとの自覚からくる、どんなことにも、特に自分の見方につては“明るい”疑いを持つことが大事だと思う。難しいことではあるが。

 

(19日)・雨水節おこす大地の湯気青し

 雨水は二十四節気の一つで2月19日、草木が芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。出雲で自家用菜園に携わっていたときは、冬場の固まった土を掘りおこす時期にあたっていた。

 印象に残っている知人の句に「玉じゃりの音やわらかき雨水かな(勝子)」があり、夫の大病の癌の手術が無事に終わり、伊勢神宮にお礼参りしたときの句という。これから心の春に向かう気持ちが現れたのだろう。

 

(20日)・春の土のたりと動く生きものも

 100坪ほどの自家用菜園に携わっていた2月半ばとなれば、気象状況を見ながらの毎日の朝作業となる。今はそのような暮らしから遠ざかっているので、相当自覚していかないと自然風土についての感度が鈍っていくだろう。

 金子兜太が日銀の退職後、仕事関係などから東京でのマンション生活を考えていたが、奥さんから「貴方は土と触れていないとダメになる」と言われ、熊谷市に引っ越ししたことが、その後の俳句活動に多大な影響を及ぼしたとのエピソードがある。

 

(21日)・(金子兜太逝去)陽炎となり兜太どこかで生きている

「よく眠る夢の枯野が青むまで」20日急性呼吸促迫症候群で死去。享年98歳。

 兜太さんについては俳句に限らずさまざまな方が触れている。そこからも、関係をもたれた多くの人に大きな印象を残したと思う。これからも影響を及ぼしていくだろう。

 選者となっていた朝日句壇は途絶えていたが、毎回のように「冴え返れ兜太戦後を終わらすな」「立春や兜太の選を待つ朝」などの句が他選者・長谷川櫂により紹介されていた。

 92歳の時のインタビューに応えている談話は兜太さんらしさが出ていると思う。

http://www.nttcom.co.jp/comzine/no100/wise/

 

(22日)・春風駘蕩追わずとも牛は往く

 知人Fさんが書いている小説は詰めの段階に入っている。自分の体験と重なるところもあり、また自分に引き付けて考えていきたいこともあり、何かと気になっている。

 著者のブログなどによると、書き進めるに従って認識が深まっていくのを感じる。タイトルは『追わずとも牛は往く』となるそうだ。このタイトルが本文の肝になっているようだ。さてどのような展開になるか、楽しみである。

 

(23日)・冴え返り過去と現在往還す

 野本三吉ノンフィクション選集『未完の放浪者』(新宿書房、2004)を読む。

 著者は20歳代後半、1968年からの4年余の、「北試」での牧場生活、山谷での日雇労働、沖縄での巫女集団との出会いなど彷徨の経験は、どの部分を切り取っても強烈な記憶が蘇ってきて、その後の人生にとって深い部分にまで影響与えていることが分かるという。それが30年後の60歳になって、どのように現在につながっているかを往還しながらたどったノンフィクション。

 沖縄・八重山での放浪、釜ヶ崎の生活から、「北試」へと辿った自分の20代はどんなんだったのだろうと思いながら読んでいた。

 

(24日)・平昌五輪飛ぶ舞う滑るいのちはる

 いやー面白かったな。普段テレビを見ることはあまりないが、この期間妻と二人で観ることが多かった。総じて一流選手でも相当な不安と緊張があるとは思うので、納得できる技をしたときの笑顔に素敵なものを感じた。大きな怪我後の不安をのりこえた人は殊更安堵しただろう。競技を終えた後の談話、こういう時の一人ひとりの物語にも面白さを感じるものもあった。

 米NBCの放映権などによる競技時間帯や政治的な動きにもかかわらず、個々の選手にとってはその条件で全力を尽くすしかないなかで、選手の競演は楽しかった。