日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎自己とは何か(多田 富雄『多田富雄コレクション1』から)

※『多田富雄コレクション1、1免疫という視座―「自己」と「非自己」をめぐって』を学びほぐしながら読む。

 ・「免疫とは何か」

 人類は、生存を脅かす伝染病の流行に何度も曝させながらも、何万年もの歴史を生き延びてきた。それは私たちの体に、病原微生物の侵入から体を守り、病気から回復ための免疫機構が備えられているからである。人間ばかりだけではないが、人については全身の7割ぐらいの免疫細胞が腸に集結し、60兆と言われている細胞の数倍もいるとされている「腸内細菌(叢)」と情報をやりとりしていることで、腸での免疫のバランスが保たれていると最近の研究から分かってきたらしい。

 

 人間の体は、親から受け継いだDNAに加えて、今までの食生活や環境によってつくられてきた腸内細菌や微生物との共生によって自分の身体が成り立っている。生命現象など細胞内の要であるミトコンドリアも真核生物の細胞小器官で他生物由来のものである。

 また、他の生き物を食べて、タンパク質などの栄養を取り入れることで生きながらえてきた。現在の地球生態系は、生命体が互いに角逐し合い、共存し合いながら維持してきたものである。

 

・「自己」と「非自己」

 免疫は、基本的には「自己」と「自己でないもの(非自己)」を識別して「非自己」を排除して「自己」の全体性を守る機構である。

 なぜ、「自己」に対しては反応を起こさず、「非自己」に対して不寛容に排除の反応を起こすのか。免疫学の先端にたっての研究成果から、「自己とは何か」「生命とは何か」と考察を重ねたのが本書第1部の特徴となっている。

 

 第Ⅰ部は、生命科学の研究者はもちろん多くの人に影響を与えた『免疫の意味論』(青土社、1993年)の内容をかみ砕いて書き直した『免疫・「自己」と「非自己」の科学』(NHK出版、2001年)からの再録を中心に据えて、免疫という複雑な現象を精緻に伝えている。

 とはいうものの専門用語が多く、私にとっては決してわかりやすいものではなかったが、「免疫をめぐる『知』の歴史」、「免疫の内部世界」、「自己免疫の恐怖」、「あいまいな『自己』―移植、がん、妊娠、消化管」、その他伝染病やアレルギーの話など、何度も行ったり来たりしながら、文学作品を読むような楽しさもあった。

 その研究成果から、多田富雄の「自己とは何か」「生命とは何か」を展開した論考に入っていく。

 

・「ファジ―な自己」 ※ファジ―fuzzy:あいまいなさま.

〈意識の「自己」は身体の「自己」の上に成立し形成される。その身体の「自己」を決定している最大のものが免疫系であることは異論がないと思われる。〉そして、次のように述べている。

 

〈近代の免疫学は、免疫系とは、もともと「自己」と「非自己」を画然と区別し「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達したシステムと想定してきた。そんなに厳格に「自己」を「非自己」から峻別している事実があるとすれば、その判断の基準は何か。そして免疫系が守ろうとしている「自己」とはそもそも何なのか。というのが免疫学の問題の立て方だった。〉(p150)

 ところが、〈「自己」は「非自己」から隔絶された堅固な実体ではなく、ファジーなものであることが分かってきた。それでも一応ウイルスや細菌の感染から当面「自己」を守ることができるのは、むしろ奇跡に近い。

免疫学はいま、ファジ―な「自己」を相手にしている。ファジ―な「自己」の行動様式は、しかし、堅固な「自己」よりはるかに面白い。〉(p157)

 

「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達してきたとされる免疫機能だが、実はその「自己」があいまいで、「非自己」との境界は後天的にシステム自体が作っていくものであることが免疫学の最先端を踏まえて語られる。

 また、時に自己免疫症のように自己を攻撃したり、アレルギーのように過剰に非自己を攻撃したりするあいまいさを有している。

 免疫機能に限らず、自分のからだは、現実には私の意のままにならないことからも、意識でとらえた精神的な自己、人格的な自己も、つきつめて考えていくとあいまいなものではないのか。

 

・生命のアイデンティティー(p158~p165)

 個体が人の生命として全体性を持つためには、全一性とか連続性が重要な属性である。その全一性を保つためには、「自己」という概念を離れては考えることができない。免疫学では、身体の「自己」を問題にする。それでは免疫学的「自己」の全一性とか連続性すなわち同一性(アイデンティティー)とは何を指すのか。と、人のもつ「自己」の同一性から免疫学「自己」の同一性、さらに生命の同一性へと多田は論を展開する。

 

・自己の同一性

  • 見られる自己と、見る「自己」の同一性:自己は自分によって見る、非自己(他者)によっても見られる存在であるが、その間にはギャップが生じる。自己というのは非自己に対する反応性、即ち自己の行為として現れるが、非自己(他者)は行為者の意図とは異なったやり方で認識することがある。
  • 時間的な同一性:日々様々な事件に遭遇し、異なった経験を積むことによって「自己」を変革していく。しかし、昨日の自己と今日の自己、20年前の自己と20年後の自己は連続したものと意識はとらえる。
  • 全体と部分の同一性:自己の行為の様々な断片をみても、そこには共通した「自己」らしさというものを発見する。一人の作家の生涯の作品のどれをとっても、全体としてその作家の表現の一部であることがわかる。民族の同一性というときも、国家や民族という全体と構成要素としての集団や個人によって規定される部分との同一性が問題にされる。全く異なった断片が全体の中に含まれた場合は、排除されるか同化されて、同一性に吸収される。

 

・免疫学的「自己」の同一性

  • 見られる自己と、見る「自己」の同一性:「非自己」に対する反応様式、基本的に「自己」内部への適応によって決定されていたことになる。
  • 時間的な同一性:一度遭遇した「非自己」を長期間記憶することで同一性が保たれる。ハシカに一度かかると一生二度とかからないのはこの記録のせいである。ワクチンを注射しておくと、たとえかかったとしても軽くすむというのも免疫学的記憶が成立したからである。
  • 全体と部分の同一性:ひとつの個体を形成しているすべての細胞は、その人独自の同じHAL分子をもっている。すべての臓器や組織の細胞は免疫系によって「自己」と認識されている。他人の臓器や組織もまたすべて他人のHALでマークされているので、そのいかなる断片でも「自己」にとっては「非自己」である。免疫系の「自己」の個性は、この著しく個人差があるHLAという内部世界に適応するというやり方で形成される。

 

 自己の同一性は、どこまでも人の意識がとらえたものだが、免疫による自己の同一性は身体そのものが内部への適応によって決定されていくところが、次元が違う面白さだと思う。

 

・生命の同一性

 多田は、免疫系における同一性の成立機構をもとにして、生命体の同一性を考えていく。

〈私は、免疫系や脳神経系のように、自ら「自己」をつくり出し、「自己」の反応様式を形成し、「自己」の運命を決定していくようなシステムを「超システム」と呼ぶことを提案する。

「超システム」は基本的に、自ら作り出した「自己」を持つシステムである。〉

 

〈個体の生命は、単一の受精卵から多様な要素が生成し、自己組織化をしてゆく過程である。遺伝的に決定された最初の原因は、次の結果を生み出すとともに、それに適応する第三の過程を生み出す。こうして自ら原因を作り、結果を生み出すという過程のつながりの中に、同一性というものがつくり出される原理がある。〉

 

〈生命の同一性は、DNAによってすべて決定されるわけではない。内部および外部世界に適応し、積極的に偶然性やランダム性を取り込み自己組織化するところに同一性なるものが形成されると考える。〉

 

・「超システム」としての生命

 多田は、免疫系に見られる生命の「技法」を「超システム」という概念を提案した。

〈「超システム」は自分で自分をつくり出し、条件に応じて自分の運命を変えながら動いていくシステムをいう。プログラムの一部は遺伝子によって決定されているが、すべての運命について完璧なブループリントがあるわけではない。〉

 

〈「超システム」は通常の工学機械のような目的を持たず、自己の構成要素と、要素間の関係を作り出していく生命の「技法」として、免疫系に限らず、脳神経系や個体発生等にも当てはめることができ、個体としての生命は免疫系、脳神経系などの複数の超システムが複合して構成された高次の超システムと考えられる。〉

 

 そしてさらに多田は「超システム」を「言語の成立、都市の形成、民族や国家の生成、経済や企業の発展など様々な文化現象」の中に生命活動と共通する「技法」を読み取ろうとした。

 

「超システム」については、本書「Ⅱ『超システム』としての生命」に様々な角度から触れている。

 

 わたしは、魅力的なエッセイもあるこの著作からいくつかのことを思った

・科学は客観性を重んじるが、要素に還元するだけではつかみようがない「自分とは何か」「生命とは何か」については、ファジ―ではあるが免疫機能、「超システム」から考えていくのは、刺激的である。

・心とか意識を、生物学の対象として「身体化」して考えるのは、現代生物学の趨勢である。心という実体のないものも、実体としての脳神経細胞によってつくられたネットワークの活動でつくり出されたものである。「心の身体化」から生命論を複眼的思考で探求していこうとする多田富雄の先見性を思う。

・多田富雄は新作能・詩・エッセイなど幅広い執筆を重ねている。脳梗塞に倒れた晩年は、老い、病、死などのテーマは多くなるが、基本には科学があり、丁寧な分析と精緻な文章表現で語り、死に至るまで「歩き続けて果てに息む」の姿勢をつらぬいた一人の人間として印象に深く残り続けている。

 

※多田 富雄『多田富雄コレクション1 自己とは何か 免疫と生命』(藤原書店,2017)