日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日馬富士引退に思う

〇日馬富士が引退することになった。最も贔屓にしていた関取で、まだまだやれるのではないかと、また、相撲取りとしての品格も感じていたので、なんか寂しい気持ちがある。

  新聞で次のように報道されていた。

〈伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の顔は、日馬富士を連れて会見場に入ってきたときからゆがんでいた。報道陣の正面に立ち、まず最初に、眼鏡をあげてハンカチで涙をぬぐった。

「引退したいと本人から早くから言われていたが、相撲を楽しんでいただく場所中は控えさせていただきました」「稽古、稽古で精進したのみならず、いろんな勉強もし、社会貢献にも目が届く珍しいタイプのお相撲さんだと思っていました」「なぜこんなことになったのか、ただただ不思議というか、残念でなりません。」(朝日新聞デジタル11・29日より)〉

 

 事件の詳細はよくわからないが、人の行動や感情はそのときの意識というよりも、殆どそれまでに培った無意識の領域で動いている。

 自分の言動を振り返ってみると、何故あんなことをしたのか、あんなことを言ったのか、よくわからないで、時には落ち込むこともある。こういうのは自分にとって貴重な体験だとも思う。

  人から怒られたり、執拗な抗議をされたりすると、なぜそうなるのか戸惑ったり、嫌な思いもするけれど、冷静になるとあるいは時間がたつと、こちらにも何か原因があるのかと振り返るときもある。大体忘れてしまうが。

  怒りは怒る方も、おかかた不快を伴うだろうが、何故不快なことをわざわざするのかと思うと、怒らせた方に大きな原因があることも少なからずあると思う。

  また、ある事件のようなものが起こると、「あの人がそんなことをするなんて」と思うこともあるが、その人の問題だけとはとても言えないと思っている。

  もちろん、凶悪な事件の場合、被害者―被害者の関係で、別の観点からも見る必要もあろうが、凶悪とは言えないようなときは、そのことだけで、その人の人生をどうこうすることは出来ないと思う。

  むしろ、どういう経緯や背景があってそうなるのかは、じっくり調べてみないとわからないし、ある程度調べたとしても、ほんとうのことは分らないことが多いのではないだろうか。