日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎人間に適った地域包括ケアシステムの構築について

〇知人Kさんの投稿から
 最近、知人Kさんの、80歳前後の両親の今後についての思いを綴ったFacebookへの投稿があった。
 それに対し、様々な方からご自分の体験などを交えてのコメントが続いている。
 私も、このことはKさんだけでなく現在の高齢社会の課題だと思っていて、次のようなコメントをした。

〈Aさんの「会える時に話を聞いてあげたらいいんじゃない。親のためでなく、自分のためにね。」というように、ここは大切なところだと思います。両親は両親の気持ちがあり、Kさんや家族の方もいろいろ思っているでしょう。親子でじっくり思いを寄せ合うことはそれほどないことなので、むしろ家族と忌憚なく話をするいい機会だと思います。
そのうえで、親子や身内の人だけで抱えるのではなく、近所の方も含めて地域社会のなかで考えていく視点も大事にしたいです。今の日本の現状は、高齢者に関係することだけでなく、何か問題が上がると身内の人にしわ寄せがくることが多いです。
 高齢者のあり方について、地域社会や福祉・医療に携わっている人などで、いろいろと模索しているところもあるし、そうした場に触れて一緒に考えていくのもいいし、Kさんの記事から始まったこのサイトのように身近な人たちで気軽に課題を共有するのも大きいです。その場合どこまでも主体は当事者、高齢者自身です。視界を広げて、ご自分がそうだと思えるところから始まります。〉

 

 いろいろな福祉制度や施策など進んできているが、まだまだ家族、自分で何とかするという風潮が残っている。また、介護支援や施設の世話になることをマイナス的に捉えている人もいる。

 団塊の世代が高齢化を迎え超高齢社会になっていく現状で、行政レベル・専門家だけではなく、関心を抱く地域住民も一緒にその課題を考えていくことが大事だと思っている。

 行政や関係専門家レベルでも地域包括ケアシステムと位置付けて、様々な模索、実践がなされている。その動きに関心がある知人からいくつかの情報があり、自分でも調べてみた。

 

〇人間に適った地域包括ケアシステムの構築について
 現在厚生労働省で、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を推進している。その構想の下で、それぞれの場所で様々な取り組みがされている。

 その中から、高齢者を含むすべての人にかなった地域社会のあり方を模索し、その関連で「地域包括ケアシステム」を位置付けている人の記録があり。関心を覚えたので取り上げてみる

(「地域包括ケアの担い手を考える―人間中心のケアとまちづくりに向けて―」での「地域包括ケア研究会」・堀田聰子氏の講演から印象に残る発言から)
〈・住民1人1人が、「どのように生きていきたいのか、どこで死にたいのか」ということを、自分や大切な人のことを思いながら問い直していくことが、地域包括ケアの出発点である。

・加えて、「私たちが生きていきたい姿、死んでいきたい姿が叶う地域は存在しない」ということを認識することも大切である

・そうした現実を認識し、しかしその中でも「そこそこ良い人生だった」と思えるようなまちとはどのようなまちなのかを、まちの中で考えていくことが重要です。

・そのためには、具体的なまちの課題や目標を住民が共有できることが重要なポイントである。

・しかし、住民の考えは様々であり、また、これまでの日本のトップダウン型の方法では困難です。国の視点から見ると、多様性をどのようにデザインするか、真の市民社会をどのようにつくっていくか、ということが課題となってきます。

・「地域包括ケア」という言葉自体、住民にその意味が伝わりにくいという課題もあります。地域包括ケアが高齢者のためのものではなく、全ての人のためのものであること、ケアする・されるという関係を超えていけるような新しいケアの形やシステムのあり方を模索していくことが求められています。

・地域包括ケア研究会では、「本人・家族の選択と心構え」があるからこそ、様々なサービスや支援が成り立つと考えられています。このことは、私たちらしさ、私たちの人生の質・命の質は、私たちにしかわからない、ということを問い直していると捉えている。

・地域でどう生きるかを考えることは、日本であまり習慣化されていません。介護人材の不足が叫ばれる中で、これからは全ての人がケアの担い手という発想の転換が必要なのです。考え方の1つが「Lay Expert(素人専門家)」、すなわち、全ての住民が自分の心身の専門家である、という考え方です。

・自分のこととして考え、行動していくことが重要。その際、自分や自分の大切な人の生きる姿の理想から地域をデザインしていくこと、理想を語るだけでなく現実的な目線からも考えていくことが大切である。
(第11回 ラーニングフルエイジング研究会 「地域包括ケアの担い手を考える―人間中心のケアとまちづくりに向けて―」2015/07/23の講演から)〉

 

 ここから、堀田聰子さんは次のような構想があるという。
・地域包括ケアシステムの構築とは人間復興の文化的な運動ではないか?
・患者であるとか専門職であるとか、そういうことを超えた一人の人間として、その関係性のなかで人間中心のケア、まちづくりとはどういうことなのかを追求し続けていくことが重要ではないか。
・人間に適ったケアシステムの構築の必要性、その模索が大事ではないか。
——–
 どのような立派な制度や構想であろうと、それを支える人々の意識や社会気風が伴っていないと、絵に描いた餅になってしまいかねない。

 堀田聰子さんの考え方の筋道や視点は面白いなと思ったが、構想の段階であり、どのようにそれを実現していこうとしているのか、構想の中身も含めて、探求を続けていく必要がある。

 構想そのものにも疑問点があり、それを挙げる。
「人間中心」とはいったいどういうことなのか?
「人間中心のケア」という言葉にしっくりしないものがある。「一人ひとりに適ったケアのあり方」とか、より慎重な適切な表現があるのではないだろうかとも思う。

 さらに、「人間中心のまちづくり」という表現には何ともいえない嫌なものを覚える。
おそらく堀田さんは「そこそこ良い人生だった」と、高齢者も含めどの人も思えるような「まちづくり」というイメージなのだろう。

 だが、「人間中心のまちづくり」と言ってしまう。その意識に人間や地域社会に対する認識の甘さを感じる。どのようなまちであろうと、自然、環境、風土などとの調和のもとで人々が暮らせるわけで、「人間中心」の観点はどこから生じるのだろうか?

 発想は注目していきたいが、人間観、社会観が多くの人に共感を得ていかないと、〈観念の遊び>になってしまうのではないか。

 いずれにしても堀田さんがいうように、「患者であるとか専門職であるとか、そういうことを超えた一人の人間として」力を合わせて探求していくが大事ではないだろうか。

※別の講演だが、YouTube「地域包括ケアシステムの構築と住民参加:基調講演 堀田聰子氏」で見ることができる。

 

【参照資料】
〇法的な「地域包括ケアシステム」に関する法律を見ていく。
・地域における医療及び介護の総合的な確保の促進に関する法律
第1章 総 則《章名追加》平17法025 医療介護総合確保促進法
(目的)
第1条 この法律は、国民の健康の保持及び福祉の増進に係る多様なサービスへの需要が増大していることに鑑み、地域における創意工夫を生かしつつ、地域において効率的かつ質の高い医療提供体制を構築するとともに地域包括ケアシステムを構築することを通じ、地域における医療及び介護の総合的な確保を促進する措置を講じ、もって高齢者をはじめとする国民の健康の保持及び福祉の増進を図り、あわせて国民が生きがいを持ち健康で安らかな生活を営むことができる地域社会の形成に資することを目的とする。
(定義)
第2条第1項 この法律において「地域包括ケアシステム」とは、地域の実情に応じて、高齢者が、可能な限り、住み慣れた地域でその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、医療、介護、介護予防(要介護状態若しくは要支援状態となることの予防又は要介護状態若しくは要支援状態の軽減若しくは悪化の防止をいう。)、住まい及び自立した日常生活の支援が包括的に確保される体制をいう。