日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎一人ひとりの心情の揺れに寄り添い続けて、高野ムツオなどから

〇先日神戸市に来てから交流している知人に阪神淡路大震災のときの話をお聞きした。今の私たちの住まいのあたりも比較的震源地に近く、甚大な被害を受けたそうだ。

 そのときは、とにかく生きることに精一杯だったという。少したってから我を取り戻し、よく生きることへの何かを求め動き出し、知り合いとの出会いに懐かしさと嬉しさを分かち合い、助け合い、融通し合いなどしながら、何ともいえないような不安感が漂っていたそうだ。

 九州では、大きな余震がひっきりなしに続いていて、たまらないだろうなと仰っていた。

 各種の報道、特にテレビ映像は、表に現れている現象を伝えることには、一面的にあるにせよかなりの効果を感じるが、肝心の一人ひとりの抱えている不安感や空白感をとらえることは、ほとんどできないのではないだろうか。

 観ている自分ができることとして、そこから次に繋がる、何らかの支援につながるものを見出していくとともに、一人ひとりの心情の揺れに寄り添い続けていこうとすることが大切なことだと思っている。

 素直な思いとして、今起こっていることを乗り越えて、できるかぎりの落ち着き、安心感を取り戻していくことを祈っている。そのための支援はしていきたいと思っている。

 一方、次のようなことも思う。特に日本は多いと思うが、地震そのものは自然界の現象で、そのような、ある種苛酷ともいえるような自然界とも折り合いながら生きていくことができる。

 また、水の有難さを痛感したり、太陽の恵みをはじめ、自然界のもの、草花や他の生き物たちに癒されたりもする。そのような出会いで、徐々に生きていこうとする力を身に着けていくこともある。

 現代社会のあまりにも人間中心の見方からくる文明化、開発などに憂慮し、強靭な自然との共生、調和によるバランスを重視するような観点も徐々に共有されつつある。

 このようなことへの一つの糸口として、当事者それぞれの心を支え続けようと詠んだ詩歌などに感じることがある。

 3月19日のブログで照井翠さんの『龍宮』にふれた。ここでは、同時期に東日本大震災に直面した高野ムツオさんの詠んだ俳句についての講演があり、その抜粋をあげる。

 なお、そのときの俳句は句集『萬の翅』(角川学芸出版、2013)に掲載されている。また、全文は現代俳句協会のブログで読むことができる。

http://gendaihaiku.blogspot.jp/2011/06/35.html

 

【参照資料】

※第35回現代俳句講座・講演:高野ムツオ「俳句-瞬間を切り取る詩」(日時:平成23年6月11日、場所:東京都中小企業会館/文責:大畑 等)より抜粋

(東日本大震災)俳句を作ろうと思い始めたのは駅の広場に逃げたときからですが、歩いて家に帰りながら、いろいろ考えました。

 一つは、阪神淡路大震災の俳句が気になりました。当時朝日新聞から俳人たちに1句出すように言われていました。しかし自分の作品が空々しく感じ出さなかったのです。数日後、師の佐藤鬼房のところに行って「先生は出しましたか?」と聞くと「俺は出したよ」との返事。後で、出来た本を見て、やっぱり表現することは大事だと、後悔の気持ちを持ちました。阪神地区の多くの俳人たちが良い作品を出していました。やはり句にしなければいけないのだと思いました。そのことがずうっと頭のなかにあったので、まず俳句を作ろうと考えたのだと思います。

 二つ目。私が生きているなかで俳句っていったい何だろう、と思いました。これも常々考えていたのですが、この震災に遭ったときにも思いました。自分のこころを支えるためにあったのではなかろうか、と。他人に何かを伝えるためではなく、自分が表現することで、そこから力を得ることが出来る、と思ったのです。特にそう思ったのは4年前に咽頭癌の手術をしまして、もしかすると声が出なくなるかも知れないと医者から言われていました。不安のなかで作った俳句が私自身を随分元気付けてくれました。だからこんどもやっぱり俳句を作る、そのように思いました。

 三つ目。やっぱり俳句は瞬間を切り取る、ということです。生きなければいけない、家族の心配もする、そういうことが一回収まってから遡って俳句を作ろうとしても、その遭ったときと数日後の作者の間に少しずつ乖離が始まります。前に戻って俳句を作ることが出来ないのです。瞬間をそのときに表現しなければいけないと思ったのです。

(中略)そういうなかで地震の句を作りました。

 

・四肢へ地震轟轟(ごうごう)とただ轟轟と 高野ムツオ

 地震が起きた直後、仙台駅の句です。句の形になったのは約一週間後でしょうか。念頭にあったのは季節感はいるだろうか?ということです。「春の地震」とか「春の津波」など、そんなよそよそしいことは言えません。季語はありませんが、季節感は邪魔をします、地震そのもの、津波そのものを俳句にしようとしました。

・天地は一つたらんと大地震

 古事記にもあるように天地は一つのものだった。それが分かれて今の世界ができたのですが、混沌としたものに戻ろうとして大地震が起こった、そのような思いの句です。理屈がかった発想ですが、震災後1週間ぐらいたってから浮かんだものです。

・地震の闇百足となりて歩むべし

 ほとんど歩きながら完成した句です。駅から家まで歩いて帰るとき、後ろから二十歳ぐらいの女性がついてきました。おどおどした暗い目をこちらに向けている、蟻のようだ。そのような句を作りましたが、まてよ、女の子が蟻だったら私は何なのだろうか、と自問しました。蟻の俊敏さに対して、六十歳を過ぎた私は百足なんだなと思いました。ここでの百足には夏の季語を意識していない。そんなことどうでも良い、百足という存在そのものが私にとって大事でした。

・膨れ這い捲かれ攫えり大津波 (ふくれ・はい・めくれ・さらえり大津波)

 地震を詠むには、無季でないといけないと思いました。友岡さんの句は漢語をひとつひとつ並べましたが、私の場合、地震の恐ろしさの表現は動詞だと思いました。※(倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 友岡子郷)

・泥かぶるたびに角組み光る蘆

 泥だらけの川を見ていました。まだ蘆の姿は見えません、さざ波の光を見ての心象の句です。蘆は泥の中からも生えてくる、古代からこの土地に生えている植物というイメージが私の中にありました。泥の中にたくさん死んだ人が居ることを知り、その悲しみを表現しました。

・車にも仰臥という死春の月

 車のなかでも多くの人が死にました。仰向けになって死んだ人もいるだろう。そして車という無機質な物体にも死というものがある、そんな思いを表現したつもりです。

・瓦礫みな人間のもの犬ふぐり

 5月末、6月に入って先ほどの写真の川に、蘆がやっと生えてきました。感動したのはブルトーザーが通ったギザギザの跡に蘆が生えてきました。植物の力は凄いですね、人間もこうじゃなければいけないと思いました。

・鬼哭とは人が泣くこと夜の梅

 鬼哭というのは元々は亡霊が泣くことですが、亡霊も元々は人間だった、人間の泣き声なんだと、そういうふうに感じて作りました

――――――

 芭蕉さんには「ものの見えたる光」を言いとめよ、という言葉がありますが、光というのは、ものの見えたるいのちの光であって、いのちの瞬間を捉えるのが俳句だと、震災に遭って思うようになりました。最後に、私の桜の句をいくつかあげてみたいと思います。

・一目千本桜を遠見死者とあり

・桜とは声上げる花津波以後

・みちのくの今年の桜なべて供花

・みちのくはもとより泥土桜満つ

 最後の句は気にいっている句です。みちのくだけではない、日本そのものは古事記の時代から泥によってなりたっている、だからこそ桜が咲く、そういう思いを込めました。