日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「人間らしさ」と「動物的ですらなかった」に関しての覚書

〇こころに残るエピソード
​ 昨日知人夫妻が遊びに来てくれた。小説の話になり、旦那は村上春樹の新刊の話を、奥さんは最近大岡昇平「野火」を読んだとのことで、話が弾んだ。

 最近のブログに、『野火』についての雑感を載せていた。その際に戦時下における意識と感覚の混乱からおきる「人間らしさと動物的」の態様や「動物的ですらなかった」との大岡の発言に触れていたことから、知人たちとの話なども含めて帰ってから思いついたことがある。

 村上春樹の作品では、鼠、羊、猫、烏、カエル、象など動物たちが印象的、象徴的な働きをすることが多い。私の思い付きの解釈だが、春樹作品の特徴として、ごく普通の人が、「動物的ですらなかった」というような状況、あるいは異様な理不尽な状況にぶつかって、「人間らしさ」を取り戻していく課程を描いていることが多いのではないかなと感じていた。 

 またブログで、石牟礼道子の文学・活動について「姉性」を覚えるとの多田富雄の発言に触れて、そのような性情は、多くの人、特に女性にもあるのではないかなと書いた。
濃淡はあるにしても、石牟礼道子のような際立った人が持つ感性にとどめておくことはしないでおきたいとの私の感覚だ。

 

【「母性」は、全部包み込んでしまうような絶対的な他者のイメージがあるが、石牟礼文学は、母性ではなく、同じレベの実存的な「自己」の一部として、共感し、共に苦悩し、しなやかに寄り添い続ける身近な存在としての優しさのイメージがあり、「姉性」を感じるという。
(※9月30日ブログ、多田富雄の発言から構成)】

 

 それに関して、心に残っているエピ―ソードのメモがある。
日本看護協会機関誌40(7)に、上野動物園の園長さんだった中川志郎が「動物の看護婦さん」という記事を載せていることを、「徳永進『ニセ医者からの出発』同友館」で知ったメモで、簡単に記録しておく。

「多摩動物公園に住むアジアソウの〈アヌーラ〉が、病気になり食欲を失う。係員の懸命な治療でも回復せず、立っているのが難しくなった。食べないので痩せ、目の光は消え、あえぐような呼吸を始め、壁にもたれていたが、ガックと膝を落とすようになる。
 このような状態になると、決して寝ようとはしなくなる。象のような大きな体になると、起き上がるのにすごいエネルギーを必要とする。横になると内臓にも負担がかかり死を意味する。
それで病気になると、横になることもできず、どんどん弱っていき、必死に起立を続けるが、限界がきてフラフラになる。
 獣医・飼育員たちは、どうすることも出来ずに、ただ見守ることしかできなかった。そのとき、アヌーラを助けたのは、仲間の2頭のメス象だった。
 病気の幼少期にあるオスの象を真ん中にして、2頭のメスの象が左右から体を寄せて倒れそうなオス象を支えた。観覧のものがビスケットなど投げる食べ物にも見向きもせず支えていた。
 痩せて子どもだったとはいえ体重は数トンを超える。それを支えるにも大きなエネルギーがいる。それが一日だけのことでなく2ヶ月(ネットで確認したら、約1ヶ月との記事もある)近く支え続けることになる。
 やがてアヌーラは回復する。
 中川さんは「血縁関係のない、単なる仲間にすぎない象が、この重労働をし続けたことに励まされる」と書いていた。

 その後アヌーラは60歳ころまで生き、日本では最高齢のオス象として紹介されている。
 中川さんの話に基づいて、『ともだちをたすけたゾウたち (絵本・ほんとうにあった動物のおはなし) 』わしおとしこ (著),  遠山繁年 (イラスト)という絵本になっている。