日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎奥田知志講演(1)(2)

〇生活困窮者支援制度に向けて
 3月21日に、島根県社会福祉協議会の研修会があり、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」理事長の奥田知志氏から「生活困窮者における伴走型支援とは」の話を伺った。4月から生活困窮者支援制度がスタートする。それに向けての講演である。

 奥田 知志さんは、1963年、滋賀県生まれ。キリスト教会の牧師をしながら、1988年から「NPO法人北九州ホームレス支援機構」を設立。路上生活者の生活を支えながら、「本人と社会的資源との連携」「社会にない動きは、新たに創りだす」など様々な支援活動を展開してきた。2007年には、ホームレス支援全国ネットワークの代表に就任。北九州での活動の理念や取り組みが「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」などマスコミに取り上げられている。

 26年間の取組みで、自立者総数2600人、自立継続率94%、4つの施設運営のスタッフ80名、ボランティア250名の伴走型社会を創造してきた。

 長期にわたっての困難をのりこえてきた実践の積み重ねと、みなに伝えたい現社会へのゆがみと、その課題に立ち向かう信念の厚みが、その一言一句に込められていて、様々な刺激を受けた。印象に残ったレジュメや発言から、いくつか取り上げて見る。(※奥田氏の発言は私なりに構成した)

 

・奥田「生活困窮者の抱える二つの困窮は、経済的困窮と社会的困窮であり、生活困窮者自立支援法では、伴走型支援における二方面作戦、つまり目の前の一人の人の困窮状態に向き合うと同時に、この困窮状況を生み出した社会に対しても仕組みを変えていくような取組、さらに、新しい社会(地域)の創造へといくような取組が大事」

 特定の困難を抱えた人や家族に対して支援をしていくことから始まるが、同時に、そのような状況を生み出している社会の仕組みそのものを問うていく、そこに問題意識を持つところまでは、ある程度は行われている。だが、そこにとどまらずに、新しい地域社会の創造へと実践、実績をあげていることに、明るい運動形態が伝わってきた。

 

・奥田レジュメ「生活困窮者支援の課題:1、もっとも弱い当事者は制度にアクセス『できない』若しくは『しない』2、現行制度はサービスが『専門分化』し『縦割り』である」「相談支援の重要性:要支援者を『発見し』,『受け止め』、制度に『つなぎ』、必要ならば『引き戻す』機能の共生支援」

 現行制度は殆ど申請主義である。積極的に動く人は本人が何とかするものだが、むしろもとも弱い当事者は、なかなか相談や制度に繋がらないことが多い。アウトリーチを欠かすことができないが、そのためのケアマネジメント、権利擁護事業などがあるが、相談に来ることを待っていることが多い現状だ。

 それと専門分化による制度の縦割りが強く、利用者のニーズや状況に応じた多様な支援が有機的、継続的に利用できない現状である。NPO法人「抱樸」では、スタッフ、ボランティア、自立者による支援グループの協力の下で、見事な展開をしていることに感銘した。

 

・奥田「今までの支援は『何を提供するか』という『メニュー』が支援であった。しかし、目の前の人にどう関わるかの対人援助は機械のようにはできない。伴走型支援というのは『伴走している』という状態をあらわすもの。伴走しているということ自体が『支援』であるということ、支援に終わりはありません」

 支援していくときに、生活保護制度のように経済的給付で解決しようとしている、それがかなえば一件落着の気分になったりすることも多い。お金(経済的な援助)だけで、人が救われるのかという課題が残る。お金の問題だけでなく、暮らし全般を見ている介護施設でも、終末の看取りまで見てもらえるところはまだまだ少ない現状である。

 一方、伴走型支援は「人が生きて笑う」という理念があり、その人とともに生き笑いの伴走者として在り続けるという、繋いだり戻したりの継続性のある支援形態をとっている。

 そうなると、その伴走者も同じ人が担うということではなく、複数の伴走者による随伴体制をとることになる。その協力体制を創ってきていることを感じた。

 また、「支援をする人・される人」の関係が固定したものでなく、随時「助ける人・助けられる人」と変わりながら地域が「同じいのちをもった人の支えあい」の社会になっていくという構想だ

 

・他に「家庭モデル=家庭の持つ4つの機能。①家庭内サービス提供機能、②記憶、③持続性のある伴走的コーディネート機能→自尊感情、④役割の創出→自己有用感」「自殺要因の連鎖図(ライフリンク)」など、考えさせられる話が続いた。

 会場からの質問に応えて、奥田氏の意識していること、やり続けてきた熱意に触れて、
・路上で亡くなっていく人たちを見過ごすわけにはどうしてもなれなかった。

・共に考え、悩み、助け合ってきた多くの仲間に支えられてきた。

・日々おこってくる事例を、継続的に仲間と検証することを大事にしてきた。

などのことも印象に残った。

 

◎奥田知志講演(2)

〇家庭(ホーム)機能の回復
 ​・ホームレス支援の2つの局面、「ハウスレスとホームレス」
ハウスレス:住居がない、食べるものがない、着るものがない、病院にいけない、仕事がない等、物理的なモノ、身体的に欠けている経済的困窮。

ホームレス:家族がいない、心配してくれる人がいない、心配する相手がいない、覚えてくれる人がいない等、家族や友人との関係性が途絶えてしまう関係性の困窮・孤立。(※従来のホームレス支援は、ほとんどハウスレス対策である)

・このような現場の視点から、戦後日本社会の困窮概念の見直しがされる。
①経済的困窮:生活保護、年金制度、ハローワーク
②身体的困窮:病院、健康保険、障害福祉、老齢福祉、介護
③関係的困窮:血縁、地縁、社縁の脆弱化。社会的孤立
④弱くも存在する①と②と③の縁や既存の社会支援をつなげるコーディネート型縁の創設。伴走型支援の必要から「家庭モデルという仮説」が生まれる。

・家庭モデル=家庭の持つ4つの機能。自尊感情と自己有用感
①受け皿的機能:住居、食事、睡眠、服飾、教育、看護
②記憶の機能:出来事、経験、思い出の共有。記憶の装置としての家庭
③持続性のある伴走的コーディネート機能、社会的資源との連携
④役割の創出→自己有用感:何らかの役割を家庭内で持っている。

というような「ホーム(家庭)機能の回復」まで、支援の視野に入れていかないと根源的な問題解決にならないだろう。これについては、ホームレス問題に限らず、関係的な縁の薄れていく現代の社会全体の問題との見解である。

 

 家庭のもつ機能で、「記憶」に注目したのは卓見だと思う。

 その人が自己同一性を保っていられるのは、身体の持っている記憶によるものである。ここでいう家庭(家庭的)とは、実の家族を超えたもの、様々な出会いによる、気が置けない関係を保ち続けている仲間によってもたらされるものだ。

 私自身を振り返っても、そのような人々に支えられた記憶の集積で、穏やかに生きていられると思っている。様々な支援にあたっても、支援する人に・される人双方に、そのような記憶のマグマが蓄えられているかどうかが、大きな課題だと考えている。

 奥田氏の話によると自分たちは「正しいことをしている」という傲慢な気持ちになっていることが、ひたすら行政のせいにして、自分たちがやらない理由にしている、ということに気付いて、自分たちでやれるところから始めようと、様々な支援体制を作っていった。

 社会参加型の就労訓練支援、自立支援住宅など着々と支援する姿勢を整えていき、地域での反対運動の中で、2013年9月、抱樸館(北九州ホームレス支援機構が運営する施設の総称)が完成した。この建設には、支援を受けて自立していった人の強力な協力があったそうである。その「出てこい食堂」は一般にも開放されている。

 この自立した人の自助組織のようなものに300人程いるという話も、このグループの明るい活力を覚えた。

 

【参照資料】
 当日の話の内容を彷彿させるような記録があるので一部抜粋する。
───具体的な活動内容は?
 食べる物、住む場所の提供と職業支援が基本的な活動です。街を巡回してお弁当や薬を配り、週に一回公園で炊き出しをし、住む場所のお世話や就職の相談をするなど、できることは何でもしています。

 先日、その数日前にアパートに入った方を訪ねました。この方とは十年間、毎週炊き出しで会っていたのですが、アパートで生活を始めたために顔を合わせなくなり、二週間ぶりに会ったのです。寝食の苦労がなくなって本当によかったと思っていたのですが、会ったときの第一声が、なんと「寂しかった」でした。そう言って部屋に座る姿が、駅の通路で座っていた姿に重なりました。───住まいができても、本質的な問題は解決していないということですか。
 野宿の人たちには、住む場所がない「ハウスレス」という物理的な問題と、「寂しかった」という言葉に象徴される「ホームレス」という問題があります。「ホーム」とは、「家」ではなく、「家庭」「家族」「絆」です。それが欠落しているから、「最期は誰が看取るのか」という苦悩が生まれます。

 自立しても、孤立していたらそれは自立とはいいません。死んだときに泣いてくれる人がいて、思い出を語ってくれる人がいる。ずっと関係を持ちつづける支援、そんな人生支援を私たちは目指しているのです。

 

───「ホーム」を回復してほしいということですね。
 そうです。できたら家族のもとに帰したい。それができないのなら、私たちが家族の代わりに最期は看取ります。私は、自分自身が一人では生きていけないと自覚しています。人間はみんなそうだと思うのです。だから強い人が弱い人を助けるのではなく、「おんなじいのち」を支え合うのです。

───若者のホームレスが増えているそうですね。
 二〇〇八年の派遣切りは、若者から職も住まいも奪いました。今の若者は、「助けて」と言ったら、大人は「お前が悪い」と言うに違いないと思い込んでいて助けを求めません。そして、「周りに迷惑をかけるだけだから死にたい」と言います。私はこの子たちをなんとか生かさなくてはなりません。「満足ではなくても幸福だという生き方があるのではないか」と話します。

 最近、小・中学校で授業をすることがあり、そこで椅子取りゲームをします。椅子を減らしても人は減らしません。協力して全員が座る努力をするのです。子どもたちは、椅子が減っても丸く並べようとします。だから、「一人でも多くが生き残るには社会の形を変えればいい」と言うと、椅子を並べ替えて工夫を始めます。 

 

──自分だけでなく、みんなの幸せを考えていくということですか。
そうです。私の家に居候していた何人かの若者が、介護職の免許取得を目指しています。自分が助けてもらった経験から、人を助ける職に就こうとしているのです。この人生観の変化は、“満足と幸福の議論”の彼らなりの結論だろうと思って見守っています。

──今後の課題は。
 問題は、家があっても「ホーム」がないというように、日本社会全体が無縁化していることです。「絆の制度化」を考えなければなりません。

──具体的には何をしますか。
 困窮・孤立状態にある方々を支援する地域拠点施設「抱樸館」を下関に造り、北九州にも建設を目指しています。
「抱樸」とは老子の言葉で、「原木を抱く」という意味です。原木そのままでは、トゲなどがあり、抱えた者が傷つくこともあります。しかし、その原木を捨てず、傷つくことを恐れずに受けとめてあげる人がいれば、その原木はやがて柱や家具となり、人びとのために役立てる可能性があるのです。私は、「ホーム」を失ったあらゆる人の傷を受けとめ、そうした人びとの新たな「ホーム」になりたいと思っています。
(『やくしん』2010年8月号 (佼成出版社)から抜粋)