日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎しなやかな探求心

〇「考えることは、明るく疑いつづけること」と思っている。
「考えることは、疑うこと」「疑いを持つから、人間は考え始める」などいろいろな人が言っている。が、疑い続けることが大事ではないかなと思う。

「疑う」には様々な意味合いがある。ここで意味するのは、「ではなかろうかと思う、が、実のところどうなのだろう」、言い換えれば、「しなやかな探求心」という意味で使っている。

 おそらく、謙虚な科学者は、そのような仮説の連続で研究に励んでいるのだと思う。最近よく会っている乳児(1歳余)を見ていると、「これはなんだろう? どうなっているのだろう?」と次々にパワフルに動き回っていて、実に微笑ましい。

 普段の表現で、考える、思う、感じる、覚える等々の、どのことばを使うのかは、ほとんど無意識的に、感覚的に採用している。そこを厳密にしようとは思わない。

 しかし、じっくり考えたいことについては、しなやかな探求心、疑いつづけることを大事にしていきたい。しなやかな探求心の持続ということが考えることの精髄ではないだろうか。

 

〇九州での合宿けんさん会では、元実顕地メンバーは私たち夫婦のみの場合がほとんどで、くつろいだ時に、熱心に子ども送りをしていたヤマギシ会会員だった人に、「けんさんをベースにしている実顕地なのに、なぜあのような、変なものになっていったのか」というようなことを聞かれた。

 それに対して、なんとか応えた。
「けんさんとは、かいつまんで言えば、あらゆる前提を括弧に入れて、どこまでも明るく疑い、考え続け、好奇心をもって実践をしつつ、さらに疑い、考え続けること。そのことで、 自身の端緒が更新されていく経験である」と、

「だが、私がいた頃の実顕地では、わたしを始め、どうしたら実顕地を拡大できるか? どのようにしたら実顕地を支えてくれる青年になっていくのか? どうしたら実顕地の資産が増えていくのか? など実顕地がらみで考える人が多く、それなりの実績をあげ、評価する人もいた。

 しかし、「成功は失敗のもと」と言われるように、実績が上がっていると錯覚するにつれて、疑いつづけるということをしなくなっていったのではないだろうか。

 それに、疑い、考えつづけられる仕組みとして、試験場、研鑽学校などを設けたのだが、上手く機能しなくなっていき、それを疑い始めた人たちが、実顕地を離れ、各地で様々な模索をしている」というようなことを言った。実際はもっとギクシャクしたものではあったが。

 最近は、様々の仕組みや団体、試みなどに触れるとき、そこに、明るく疑いつづけることが、その集団の大きな核になっているのかどうかを判断基準にしている。

 また、いろいろな見解、論考の場合、その人自身が自分の考えに対して、疑いつづけているかどうかを、聞く、読み進めていく目安としている。それが感じられないと面白くないから。

 もっと大事にしたいことは、自分(たち)がやろうとすること、考えていることに「考えることは、明るく疑いつづけること」がビッシと入っているかどうかである。ともすると、とんでいることも多いが、そのことを心においておきたいと考えている。