日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「安全感の環」の中で育つ孫(9か月)

〇孫の育ちの観察から、人が育つとは何だろう、心(脳)はどのように発達していくのだろう、社会性を身につけるのはどのようなことなのだろう、などいろいろ考えるのは面白い。

 9か月を過ぎて、ある程度周りの状況をつかめるようになって、快・不快による原始的反射以上に意思・意欲による情動が目立つようになる。その中で、ある種の不安や戸惑いを覚えると、特定の人の後追いをしたり、まとわり付いたりし、いわゆる愛着行動(アタッチメント)が頻繁に起こる。孫にとって、母親や妻がその対象になっていて、今のところ私はそうではないようだ。

 

 子育ておいて、養育者との「アタッチメント」の重要性がいわれている。

「アタッチメント」は、私たち人が、何らかの危機に接し、恐れや不安などの感情を経験したときに、身体的な意味でも、あるいは心理的な意味でも、誰か特定の人にくっつきたいと強く願う欲求、そして現にくっつこうとする行動を指して言う。(J・ボウルビィ)

  生物種としてのひとの赤ちゃんの特質として、直立歩行による骨盤の構造などにより、きわめて未成熟な状態でこの世に生まれ、他者への絶対的な依存を前提として人生を出発する。その他者依存性の赤ちゃんをその場に応じて受け止めようとする養育者(母親や家族に限ったことではない)が欠かせない。

 

 孫が生まれてから同年齢の乳児を見ていると、顔が特に目立つような身体バランス、ずんぐりむっくりとした手足、ぎこちないながら何とかしようとする動きなどの幼児図式から、大人の側がそうしたくなる養護欲求を強く揺さぶる要素が備わっているような気がする。

 

 アタッチメントを愛着理論として確立したJ・ボウルビィは、食べたい、眠りたいなどの生理的欲求とともに、アタッチメントは基本的な欲求ではないかとして、それが満たされることで健全な発達がはじめて立ち上がるメカニズムが存在するのではないかと考え、そこで獲得した安全感、信頼感がその後の対人関係やパーソナリティの発達に影響をもたらすと考えた。

 

「安全感の環」(Circle of Security・サークルオブセキュリティ)という概念がある。

「見守っていてね・手伝ってね・一緒に楽しんでね、見ていてね」などの“安全基地”としての養育環境と、「まもってね・なぐさめてね・受けとめてね・気持ちを落ち着かせてね」などの“確実な避難所”としての養育環境が織りなす輪を指す。

 孫を見ていると、この輪があることで、ここから自発的な探索行動にいそしみ、何かに不安を覚えたり、躓いたりしたときに“安全基地”として養育者のところに一目散に飛び込んでいく。この動きは何ともいえず微笑ましい。

 

 遺伝子に組み込まれているのか、それまでの養育者とのふれあいの中で、孫が主体となって、大人を情緒的な利用対象として求め、養育者がそれに応じているようにもみえる。

 子どもが求めてきたときは適宜応じ、逆に必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、一人でやっていけるような自律性の発達を促し、独り立ちを支えるものとなるのではとも思う。

 

 この「安全感の環」のもとでのアタッチメントにより、情緒的利用可能性を育み、安全な感覚と基本的な信頼感、自律性と感情調整能力、共感性と心の理解能力を培うと考えられている。

 

 孫を見ていると、いろいろな意味で切り替えが早くなり、母親がいなくなりわが家にいる間、ぐずったり泣いたりしても、以前より大部短くなってきた。

 初歩的なものだと思うが、次のようなことも芽生えてきているのを感じている。

  養育者が子どもの思いや感情を適切に対応することを通して、安全の感覚および自己効力感や他者信頼感を高めていっていると思われる。

 ウィニコットが「子どもは誰かと一緒のとき、一人になれる」(『遊ぶことと現実』)と命題化したように、養育者に見守られながら子どもが一人で自発的に遊ぶことをとおして自律性と感情調整能力も培ってきているようだ。

共感性と心の理解能力については、まだよくわからない。

 

 また次のことも思う。

 乳幼児期はむろん、「安全感の環」は子どもが育つ過程において欠かせないだろうし、ある意味、どんな人にとっても大事なものではないだろうか。

 

参照文献:『赤ちゃん学を学ぶ人のために』小西行郎/遠藤利彦編集(世界思想社、2012)