日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「わがまま」な人から「協力」し合うようになるとは

◎孫の育ちから思う(8か月)②

 8か月過ぎの孫を見ていると、生後混沌とした状態から視力もはっきりしてきたのか、特に母親だけでなく、人の顔をまじまじと見つめるようになった。おそらくそれに伴って知力がつき、心のありようも少しずつ豊かになってきたような気がする。

 

 今は、自己の情動の赴くまま自己中心に生きているように思われる。周りの人たちに支えられかつ大いなる影響を受けていると思うが、こうした方がいいとかこうすべきとかの意識はあまり感じられない。まして、他を思いやる、わきまえる、迷惑をかけてはいけないなどとは全くおもわないようだ。

 

 このような言い方がふさわしいのかと思う面もあるが、どうも、人は“わがまま”(自己中心的に動き周り自分にとって心地よい感性を基準として)に生まれ育ってきているのではないだろうか。

 

 こうした方がいいとかこうすべきとかの私が身につけている道徳・倫理的な基準は、時代や社会の影響を受けた私が徐々につくり上げた見方であり、突き詰めると相対的なものだとも思う。

 

 赤ん坊が育つ過程で、自分勝手にふるまうのではなく、周囲や他を思いやるというような社会性を身につけることが、成長する、大人になるということだと思うが、もともと人は“わがまま”に生まれついているのではないかという思いもあり、その観点も心においておきたい。

 

 近来の人類史の研究から、華奢なホモ・サピエンスが現在につながっていったのは、他の生命種に比べて身体的な「弱さ」にこそあったと考えられている。弱いからこそ、安全な狩りを行うことができる道具を生み出し、仲間同士で力を合わせる「協力」を高めた。そうして人口を増やし、脳の機能が促され、言葉の発達による「コミュニケーション力」、「想像力」によってさらに他の生物種には見られないほど大規模な社会的協力が可能になった。

 

 人類史において「協力」が進化の一つの大きなキーワードになるのではないだろうか。

 それでは、“わがまま”に生まれついた人たちが「協力」し合うようになるとはどういうことなのか、面白い課題だと思う。

 

 孫の育ちや自分自身のいろいろな人との関わり方を考えてみて、「協力し合う」とは周りや他の人のことを思うというより、自分にとってより心地よい感性を基準にして行為する、自分にとってその方がよいと思うからではないか、と今の私は思っている。

 

 人にとって3歳ぐらいまでに培われる安心感・信頼感の重要性、子どもが仲間との遊びを通して育ちあう、いろいろな人との良質な関係で何かを一緒にすることが、その後の成長過程にもたらす大きさがよく言われるが、そこで身についた「他と関わり合う」ことの面白さ、「協力し合う」ことの心地よさが、道徳・倫理的な観念によって身についたというより、自分にとってより心地よい感性となっていったのではないだろうか。

 

 このことについては、最近の「赤ちゃん学」や「発達心理学」の知見、現代生物学の基盤をなす「進化生物学」の知見、ヒトを含めた霊長類の学際的基礎研究などの成果などに照らすこともしていきたいが、この項では、孫の育ちを見ていて、私が直感した見解を述べてみた。引き続き考察していきたいと思っている。

 

 もう一つ思うのは、道徳的な見解は教えられてわかるというよりも、育つ過程での良質の人間関係によって培われ、心の底にどっしりと身につかない限り、こころもとないものにすぎないのではないだろうか。

 

※「道徳」:ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。(大辞林第三版)