日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」から

〇鶴見俊輔は自らも含めて立ち上げた雑誌『思想の科学』の活動目的は、「第一に敗戦の意味をよく考え、そこから今後も教えを受け取る」こととし、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」を問い始める。その理由の一つとして、「言葉による扇動である」と考え、最初の論文として、『思想の科学』1946年5月号(創刊号)に発表した論考「言葉のお守り的使用法について」を発表する。

 

 まず鶴見は、私たちが使う言葉を主張的な言葉と表現的な言葉とに大きく二つに分ける。

・主張的な言葉:実験や論理によって真偽を検証できるような内容を述べる場合。「1に1をたすと2なる」「平成は30年続いた」など真偽を検証できる主張。

・表現的な言葉:言葉を使う人のある状態の結果として述べられ、呼びかけられる相手になんらかの影響を及ぼすような役目を果たす場合。「あなたが好きだ・嫌いだ」「何かおいしいもの食べたいな」など感情や要望の表現。

 

 この二つの言葉の分類をもとにしながら、戦時中の「米英は鬼畜だ」の言葉のように、実質的には表現的(感情や要望の表現)であるのに、かたちだけは主張的(真偽を検証できる)かのように見えるケースがあり、このような言葉を「ニセ主張的命題」と呼んでいる。

「ニセ主張的命題」の言葉は、その意味内容がはっきりしないままに使われることが多いのだと、鶴見は注意を向ける。

 

「米英は鬼畜だ」の命題を例にとると、論理や実験では確かめることのできる主張ではなく米英をにくみきらう心理状態と、その心理状態をかもしだす社会動向を表現することにある。それは太平洋戦争の中で、多くの人々によって「1に1をたすと2なる」という主張的命題とおなじ性格のものとしてあつかわれていた。つまり「ニセ主張的命題」として自覚していなかった。

 

 戦時中は、「鬼畜米英」「八紘一宇(注:「道義的に天下を一つの家のようにする」の意)」「国体(注:「天皇を中心にした政体」の意)」などが「ニセ主張的命題」として使われ、政府はこの言葉を巧みに使って政策を正当化し、戦争の実相を伝えなかった。更に、「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する「熱狂的献身」と米英に対する「熱狂的憎悪」とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導くことになる。

 

 そして次のように述べる。

〈言葉のお守り的使用法とは言葉のニセ主張的使用法の一種類であり、意味がよくわからずに言葉を使う習慣の一種類である。言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。--------

言葉がお守り的にもちいられる場合の例としては、政府の声明、政党の名前と綱領、国民歌謡などがある。軍隊、学校、公共団体で述べられる訓示やあいさつの中にはかならずこれらの言葉が入っている。社会的背景がかわると、お守り的につかわれる言葉もかわるもので、米国においては「キリスト教的」「精神的」「民主主義的」などが、しばしばお守り的にもちいられる。〉(『鶴見俊輔集―3 記号論集』p390‐391)

 

〈政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている。言葉のお守り的使用法を軸として日本の政治が再開されるならば、国民はまた、いつ、不本意なところに、しらずしらずのうちにつれこまれるかわからない。(同P399‐400)〉

 

 ものごとは、その時代特有の現象もあり、時代を超えて続くものもある。言葉のお守り的使用は後者の例で、情報社会ではなおさら盛んになると思う。政治家を世間とおきかえてみてもいいと思っている。

 

 私はある特殊な共同体(ヤマギシズム実顕地)に2001年まで25年余暮らしていた。その集団内でよく使っていた言葉、他ではあまり使わない独特の言葉を、説得的定義言葉として、あるいは「お守り言葉」のようなものとして使い、その言葉の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた思いが残っている。

 

 私たちがテレビやインターネットや本や雑誌や広告などで語られる少なからずの言葉は、この「ニセ主張的命題」そのものだと考えられることも多い。

 鶴見は、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平和」「人権」などを挙げている。その言葉自体にさして問題があるわけではないが、平和を守るために戦争をするという具合に使われるとき、その文脈をよく確かめないとおかしなことになる。

 また「健康的」「科学的」なる言葉をかぶせ、将来にたいして希望的あるいは悲観的な感想を述べたり、商品の優れた点を宣伝したりする言葉を使っていることもよくある。

 

 先日のブログにスティーブンスン『倫理と言葉』の「説得的定義」に触れた。

〈説得的定義とは自分の態度を表す言葉を表明することで相手の態度を変化させようという言語行為である。説得的定義でしばしば使われるのは、「自由」「教養」「愛」 など、一般に定義は曖昧だが一定の肯定的あるいは否定的な評価が結びついているような語(二次的評価語)である。説得的定義においては「本当の」「真の」という語がもちいられることがよく見うけられる。〉

 

 それはそのまま、「言葉のお守り的使用法」と置き換えられると考える。

  私たちの「世界」は、言葉によってつくられるものでもある。「言葉のお守り的使用」が至るところにあるのではないでしょうか。

 

 では、このような言葉に惑わされないようにするにはどうすればよいか。「言葉をほんとうに具体的に人々の幸福とてらしあわせてとらえる」訓練を重ねることしかないと鶴見は言う。

 どんなに立派そうに見える言葉でも、自分が身に付けた、使い慣れた言葉でおきかえて理解して見ようとする。「お守り言葉」に惑わされないためには自分の経験に基づいた実感ある言葉を鍛え上げることしかないだろう。