日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎手づくりの定義へ(『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』から)

 〇手づくりの定義へ

 日ごろ思うこと感じることを、話したり書いたりしている。その当たり前と思っている見解について、振り返り調べて見直ししていくことも大切にしたい。

 

『定義集(ちくま哲学の森 別巻)』(鶴見俊輔・安野光雅・森毅・井上ひさし・池内紀編、筑摩書房、1990)は編者たちの選んだ言葉が縦横無尽に集められている。

 この著などから、自分にとって参考になる言葉に触れながら、学びほぐしていく。

 

「定義」とは概念の内容を限定すること。「このことはこうだ」と物事の内容や言葉の意味を明確に決めること、ぐらいで考えている。

 

 本書の解説、鶴見俊輔「手づくりの定義へのすすめ」は次の言葉から始まる。

・〈私は、自分なりの定義をもっている。人はそれぞれ、その人なりの定義をもっている。

 私の思想の根もとにあるのは、痛みによる定義だ。-----痛みによって定義する。たのしみによって定義することもあろう。そういう、自分のからだの記憶としてもっている定義の束が大切だ。(中略)

「これは善い」という時の「善い」の定義には、「私はこれが好きだ」+「あなたもこれを好きになってください」という二つの判断の組みあわせがこもっており、そこには説得への努力がふくまれているとC・L・スティーブンスン『倫理と言葉』に書いた。「説得的定義」とスティーブンスンの呼ぶものは、数学や自然科学にも少量ふくまれており、社会科学や歴史学においてはさらに大量、そして日常生活で使われる言語では野ばなしで使われている。政治や広告では、説得的定義の本領が発揮される。

 科学や技術の名の下に、どれほど説得的定義が、その性格を見わけられることなしに使われてきたが、ある年月の間隔をへてわかってくることもある。〉

 

「善い・悪い」「正しい・間違っている」など、言外も含むとしばしば思っている言葉だ。

 数学や自然科学などの場合はともかく、多くの場合、「私はこれが好きだ」から生じ、嵩じると「あなたもそう思うのが当然」となり、強く感じると、子細に検討するどころか受け付けなくなることがある。

 

 また科学・科学的の名の下に、説得的定義で論を進めている話や文章にも出会う

 科学のルールとして「相関関係は因果関係を含意しない」がある。因果関係を明確に示すデータや再現性がないと「科学的に立証された事実」とは認められない。

 ところが、科学とくに実験科学が証明できることは、「相関関係」だけ。そこから「私たちの心(脳)」が解釈しているだけで、基本的に「因果関係」は証明できない。

 では、科学的でないと信じないー信じる心とはいったい何か。自分が科学的と信じて、よって立つ基盤のなかでの「科学的」としかいえない。

 ※池谷裕二『進化しすぎた脳』『単純な脳、複雑な「私」』を参照。

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 解説は日常生活のことについて話は続く。

・〈私がここにいて、生きてゆくためには、世界のことを見つくしてから定義をたてるわけにはゆかない。人生について、身のまわりのモノについて、自分の出会う人びとについて、いくつかの定義をおく。そういう場合、定義は、私の偏見をせおうことになる。「偏見はたのしい、しかし無知はたのしくない」と竹内好は日記『転形期』に書いた。その前半は、偏見のいきおいにのってすすめる生への肯定であり、その後半は、偏見のかげにかくれてまわりをよく見ないかたくなさへのいましめである。〉(同上)

 

 どのような思い方も、自分はそう思う、その人にはそう見えている「偏見」、偏った考えであると思う。だからといって発言を控えるということではなく、発揮するのは生への肯定につながる。

 わたしは鶴見俊輔の独自の視点からの文章を楽しみにしていて、共感することも多い。

 そして、無理をすることはないが、自分の見解とは異なる人の偏見について、その意見を聞こうとしないかたくなさはなくしていきたいと思う。

  

 解説は次の言葉で終わる

・〈哲学は、自分自身が生きる場から工夫されるものだから、ここにおかれたさまざまの定義は参考品であり、手づくりの定義への呼びかけである。

おさないこどもが、友だちをバカと呼んで母親にいましめられているのに出会ったことが何度もある。「バカという人がバカなのよ」

 馬鹿という人は馬鹿である、この定義を私も、自分の前においてくらしたい。〉(同上)

 

 その定義は、そのように言っている、非難している人自身が、同族である場合があるということなのだろう。

 

 ちなみに本書の「定義」の項の中でいくつか挙げてみる。

・〈定義すること、それは観念という茫漠たる土地を言葉の壁で囲うことである。(S・バトラー「手帖」)〉

・〈何事も定義づけぬこと、これは懐疑家の守るべき義務のひとつである。だが私たちは、どんな些細なものであれ、たまたま定義をみつけだすとたちまち尊大な態度を示すが、これ以外にどんな態度をとることができようか。定義づけることは最も根深い偏執のひとつであり、それは最初の言葉とともに生まれたに違いない。(シオラン「四つ裂きの刑」)〉

・〈われわれはたいての場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。(W・リップマン「世論」)〉

 

参照:〈説得的定義(せっとくてきていぎ、persuasive definition)とは、メタ倫理学者のチャールズ・スティーブンソンが提唱した概念で、ある対象を記述する際に、なんらかの議論や見解を支持し相手を説得するために、特定の感情を呼び覚ますような語を目的にそって定義することをいう。

 スティーブンソンによれば、倫理的判断というものはすべて自分の態度を表明することで相手の態度を変化させようという言語行為であり、説得的定義はその手段の一つである(情動主義も参照)。道徳的な議論において用いられる言葉の多くには、記述的意味と情動的意味という二つの意味がある。説得的定義は、情緒的意味(肯定・賞賛や否定・非難など)はそのままで、記述的意味を定義することによって相手を説得しようとする場合におこなわれる。

 説得的定義でしばしば使われるのは、「自由」「教養」「愛」 など、一般に定義は曖昧だが一定の肯定的あるいは否定的な評価が結びついているような語(二次的評価語)である。説得的定義においては「本当の」「真の」という語がもちいられることがよく見うけられる。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)〉