日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎色の背後に一すじの道が通っている(志村ふくみ、大岡信の言葉から)

〇色の背後に一すじの道が通っている
 桜についての印象的な話に、染織家志村ふくみさんの話がある。
きれいな淡い、匂い立つような桜色を染め出すために、桜の花びらや蕾ではなくて、花の咲く前の黒くゴツゴツした樹皮や枝を使うのだという話。

 

・「花びらから美しい桜色を染めるのではなく、あのゴツゴツした皮や枝からだということも、大岡(信)さんには意外だったようだ。花はすでに咲いてしまったのだから、そこからは色は出ないのである。木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、桜の花びらの色となるのだから、言葉の世界のできごとと同じではないか。」(『色を奏でる』「花の匂い」ちくま文庫、1986より)

 

 春に咲くサクラの花芽は、前年の夏に形成される。その後、生成されることなく「休眠」という状態になる。休眠した花芽は秋から冬にかけて一定期間、低温にさらされることで、眠りからさめ開花の準備を始める。これを「休眠打破」という。そして春をむかえ、気温が上昇するにともなって、花芽は成長「生成」する。気温が高くなるスピードにあわせて、花芽の生成も加速する。生成のピークをむかえると「開花」することになる。

 このように、サクラの花芽の「休眠」・「休眠打破」・「生成」・「開花」は、秋から冬にかけての気温と春先の気温に、大きく関係している。冬のない常夏の国では、日本のサクラのように美しく咲かない。サクラは、四季のある日本の国で特化した植物だともいわれている。

 

・「植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。たとえ色は出ても、精ではないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません。 友人が桜の花の花弁ばかりを集めて染めてみたそうですが、それは灰色がかったうす緑だったそうです。幹で染めた色が桜色で、花弁で染めた色がうす緑ということは、自然の周期をあらかじめ伝える暗示にとんだ色のように思われます。」
(『一色一生』、講談社文藝文庫、2003より)

 

 桜に限らず植物は、光、土、気温、風土、生態系などなど、様々な影響を受けながら、そのものが本来持っている持ち味で育っていく。また、人為的なものを加えられた植物は、長い歳月の間に、人為的な掌も添えられながら、自然の懐に育まれて、環境・生態系に適応するように育て上げられてきた。

 

・「色はただの色ではなく、木の精なのです。色の背後に、一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです。私は今まで、二十数年あまり、さまざまの植物の花、実、葉、幹、根を染めてきました。ある時、私は、それらの植物から染まる色は、単なる色ではなく、色の背後にある植物の生命が色をとおして映し出されているのではないかと思うようになりました。それは植物自身が身を以て語っているものでした。こちら側にそれを受け止めて活かす素地がなければ、色は命を失うのです。」(同上)

 

 花の開花はその一端を見せているだけで、時空の恵を束ねたいのちの精髄で花を咲かせ、幹をふくめた全身でその花びらの色を生み出している。

 私たちは表面に現れた現象によって判断しがちであるが、ほとんどのものごとは、その背後の様々な要因が絡み合って成り立っている。今自分が見えていることが、実のところどのような要因から生じているだろうかと意識化していくことで、その見え方、感じ方の深みが増してきたり、全く違った見え方になったりするのだろう。

 

〇大岡信は志村ふくみさんとの話から言葉の世界にも共通するのではないかと『ことばの力』で次のように語っている。


〈人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

 京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。

「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」

 と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

 考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。

 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。〉
(大岡信『ことばの力』花神社、1978より引用)