日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ひとりの〈ふつう〉の人として(吉本隆明についての覚書)

※7月度のNHK100分de名著は「吉本隆明“共同幻想論”」を取り上げた。

『共同幻想論』は私には難しくて、読み通ししたことはない。しかし、その中の言葉「沈黙の有意味性」「大衆の原像」などに魅力を覚えることがあり、それについて考えることがある。

 国家、家族制度、法律、貨幣、宗教、〇〇主義など、すべて人間が作り出した虚構(フィクション・物語)、つまり存在しないものを信じる能力・想像力によって、他の生物種には見られないほど大規模な社会的協力が可能になり、一方、大がかりな紛争や戦争に発展する要因にもなった。これは、現代の研究者などの共通の見識になってきた。

 最近話題になったユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』はこの「虚構」を軸に、人間の歴史を総括した歴史物語である。

 吉本隆明の「共同幻想論」は、「国家とか政治とか法律といった問題(共同幻想)、それから社会生活における家族それ自体の問題(対幻想)、そして家族のなかの個人の問題(自己幻想)、これが全部からまりあっているのが家族問題の大きな特徴だ。」(吉本隆明『家族のゆくえ』p147)とする、日々の暮らしにおけるもののとらえ方に参考になると思う。

 ここでは、依然にブログで触れたこともある、吉本の思想の根幹にある「大衆の原像」について改正再録する。

 

〇吉本隆明の「価値ある人間の原像」

 吉本隆明に関心を持ち始めたのは、8年ほど前からである。
「老いの流儀」「老いの超え方」「幸福論」など老いの渦中にある自らの体験と実感をもとにしっかりと検証し、過去の思索に適宜言及しながら、「一人の〈ふつう〉の老人」として包み隠さず思いのままに語る態度に好ましさを覚えた。

 とりたてて特別なことを語るわけではなく、その見解にそうかなと思うこともありながら、随所にキラリとするような表現がさりげなく語られる。
今まで多少は触れることもあったが、表現が難しすぎて殆どまともに読んでいなかったが、最近になっていくつかの論考に接して、依然として難しいこともありながら、いろいろ触発されることも多い。

 

 その中から注目したところを挙げる。
・[ここでとりあげる人物(マルクス)は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。](『吉本隆明全集第9巻』「カール・マルクス伝・プロローグ」)

 

「カール・マルクス伝」の本文の方は、どうこう言える力量はないが、プロローグは面白いと思った。
 言われてみれば当たり前のことなのだが、自分はそのような見方になっているのか、心もとないのである。一人ひとりの〈ひと〉を、いくらかの価値の優劣をつけて見ているのではないかと。

 このような生き方はしたいな、あんな生き方はしたくないなと、好き嫌いはあっても、一人の価値として、とても優劣をつけられないという基本的なことが、振り返ってみると、よくわかっていないのかもしれない。

 

その文章は次のように続く。
・〔人間が知識―それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である―を獲得するにつれてその知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
 千年に一度しかあらわれない巨匠と、市井の片隅で生き死にする無数の大衆とのこの〈等しさ〉を、歴史はひとつの〈時代〉性として抽出する。(「マルクス伝 プロローグ」)〕

 

 わたしが知る限り吉本の言説には、難しくてよくわからないところ、なんか違うのではないかなと思うこと、矛盾などを感じることもある。だが、現実の自分の内面はどのような状態であるかは一先ずおいて、上記の見方には強烈に共感するものがある。

 ひとりのふつうの人間が生きていくにあたっての生活思想や人間的自然を根底において、そこから思想を深め、日常生活の意味を掘り下げていった人として、あるいは「人間の等価性」と「価値ある人間の原像」を見据えた人として吉本を見ている。

 

 そのようなことを随所に感じることができるが、次のような表現には戸惑うものがある。


・〔世界のどこかに戦争があるとか、革命があるとか、なにかあるとか、そんなことは全然考えません。じぶんが自然過程のように繰返すあしたの生活、あさっての生活、そのこと以外には全く関心をもたないわけです。そういうふうにして結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。というように考えていったわけです。つまり、人間存在の価値観の規準はそこにおくことができるということです。
 だから、もっとも価値ある生き方とはなにかと問われたとき、日々繰り返される生活過程の問題以外にはあまり関心を持たないで、生まれて老いて死ぬという生き方がもっとも価値ある生き方だ、というほかはありません。どんな人間でも、大なり小なりその規準からの逸脱として、食い違いとして、生きていくわけですが、キルケゴールなんかにはぜんぜん関心がないという生き方は、もっとも価値ある生き方だということができます。
(吉本隆明の講演 A026「自己とは何か-キルケゴールに関連して」)

 

 この見方に対して、「自分はそこまで言えるかな」と躊躇するものがある。
 勢古浩爾『最後の吉本隆明』は、わたしにとって、より吉本に関心を抱くようになった好著で、その言に触れて、もっとも衝撃を受けた言葉として紹介している。彼の文章は伝わってくるものがあるのだが、わたしは戸惑いを隠せず宿題にしている。

 ただ、吉本自身の奇をてらった物言いでないこと、彼がどこまでそうなっているかはわからないが、本音からそう思えていることだろう。そこまで思えている吉本に魅力を感じるばかりである。

 世の中への寄り添いや権威や組織などにおもねることなく、どこまでも一人の〈ふつう〉の人として屹立していた生活思想者であったからだ。

 

 次のような表現には共感するものがある。
・[人を見る上でもっと大事なことをあげるとすれば、それはその人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということのほうだと言える気がします。(『真贋』)

 もう一つ、「うーん」とうなった表現がある。
・[わたしにも、対話のばあいに、課している戒律はある。〈じぶんを低くすること〉、〈相手をひき立てること〉。この戒律は、わたしの〈書いた〉ものでは、反対に〈確信のあることだけを確信をもって〉ということになる。ここにあつめられた対話のなかで、いささかでも対話の戒律にそむいて、〈いいつのっている〉個処があったら、それはわたしの方が駄目なのである。これもはっきりさせておくべきだとおもう。](『どこに思想の根拠をおくか』あとがき)

 

「対話」をひろげて「人間関係」と読み替えて考えている。殊更、〈じぶんを低くすること〉としなくても、どのようなひととも〈同格〉の人として、対等に接していけばいいだけのことである。難しいことだが。
 振り返ってみると、〈じぶんを高きにおいている〉、〈いいつのっている〉ときもあるのではないかといろいろな場面を思い出す。

 実際のところ、ほんとうのことはわからないなという基本的なことを踏まえ、それでも、「不完全で未熟なお互いであることを根底において」、お互いの「思い」を重ねていきたいと願うところに、変容していく対話が成り立つと思っている。そして、その連続で人間関係が成熟に向かうのではないだろうか。

「本当のところはわからない」「不完全で未熟なお互いであることを根底において」(同格の人として)など一般論的に語るのはだれでもできるが、自分に引き付けて自分はどれほど身についているのだろうかと検証抜きには迂闊には語れないことだ。

 おそらく吉本の場合もそういう風にありたいという戒律であり、それを自覚したところからの言説のような気がしている。
いずれにしても、その自覚のあり様から、ひととしての謙虚な態度が培われていくのではと考えている。

 

【参照資料】
・『吉本隆明全集第9巻』「カール・マルクスーカール・マルクス伝」(晶文社)
・吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』(筑摩書房、1972)
・吉本隆明講演集『敗北の構造』―「自己とはなにか」(弓立社、1972)
・『真贋』 (講談社文庫、2011)
・吉本隆明の183講演-ほぼ日刊イトイ新聞 A026「自己とは何か-キルケゴールに関連して」
・勢古浩爾 (著)『最後の吉本隆明』 (筑摩選書、2011)

 なお吉本隆明の講演をインターネットで聞く、またテキストを読むことができる。
「ほぼ日刊イトイ新聞が保有している思想家の吉本隆明さんの講演音声を無料、無期限で公開します。183回、合計21746分。好きなだけどうぞ。」とあり、いくつか聞いた。これは大変有り難いことだ。
 講演録音しつづけた宮下和夫をはじめ、テキストとして読めるように労をつづけている人など、吉本を支える人材に恵まれているのも、吉本隆明の〈ふつう〉のひととしての誠実さ、態度の賜物だと思っている。