日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「あなたなしでは生きてゆけない」(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)(ひこ生えの記⑫)

〇内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読んだ。何回も同じ本を読むことはあまりないが、この人の著作は読み返すことが多い。この本に所収されている、Ⅵ「死と愛をめぐる考察」―「あなたなしでは生きてゆけない」に促されるものがあり、自分に引き付けて考えてみた。

 自分にとって「かけがいのない人」について、まず浮かぶのは妻である。面と向かってはいわないが、心の底にはある。

 自分の身辺のことを書くときに、ともすると主語が「わたし」から「わたしたち」と一人称複数形になっていることがある。というより、分けることができないのかもしれない。

 娘が結婚してから身辺のことについて話すとき、「わたし」のなかに「相方も含んだわたしたち」が入り込んでいるし、子どもが生まれてからは、その子も含んだものになっていることが多い。娘夫婦にとって赤ちゃんは「かけがいのない人」になっているようだ。

 これが夫婦になること、子どもを持つことの、人間社会にしか見ることのできないとされている「家族」というものの核となる現象なのだろうとも思う。

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〇本書から、著者の息遣いが途切れると妙味が半減するので、長くなるがそのまま引用する。

〈ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。

 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。

 自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。

 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱり分からない。

 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。

(中略)

「交換」の起源的なかたちは「キャッチボール」という遊びのうちに生き残っている。

 ひとりが投げる、ひとりがそれを受け取り、投げ返す。この遊びが「交換」の原型である。

 このやりとりは何の価値も生み出していない。だから、経済合理性を信じる人には、これはエネルギーと時間だけがむなしく消費され、ボールやグローブが少しずつ摩滅する「純然たる無為」に映る。けれども、私たちは実際には飽きることなくこのボールのやりとりに興じる。

 それはここに交換の本質があることを私たちが無意識のうちに知っているからである。

 キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を受け取った相手のグローブの発する「ばしっ」という小気味よい音と、相手が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを要請されていることを知る。

 あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは、「I cannot live without you ※あなたなしでは生きてゆけない」という言葉なのである。

 これが根源的な意味での「贈与」である。

 私たちはそのようにして他者の存在を祝福し、同時に自分の存在の保証者に出会う。

「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。〉

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 小さいころ野球が好きで、父からグローブを買ってもらい、キャッチボールをした思いでは、母に比べて思い出すことの少ない父の思い出のなかで、印象に残っていることの一つだ。

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〈I cannot live without you.

 これは私たちが発することのできるもっとも純度の高い愛の言葉である。

 私はこのyouの数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると思っている。

 幼児にとってこのyouはとりあえず母親ひとりである。子どもがだんだん成熟するに従ってyouの数は増えてゆく。

 たぶん、ほとんどの人が逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。

 どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を向上させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発の方が生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。

 だが、それは短見である。

「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。

 自分のまわりにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、(キャッチボール例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。

 自分の懐で安らいでいる赤ちゃんの訴えるようなまなざしのうちに「あなたがいなければ私は生きてゆけない」というメッセージを読む母親は、必ずそれに「私もまた、あなたなしでは生きてゆくことはできない」というメッセージで応じることになる。というのは、あるメッセージを正しく受信したことを相手に伝える最良の方法は同じメッセージを送り返すことだからである。

 私は現に「その人」がいないと直接生活に支障をきたすような多くの人に取り囲まれて生きている。その数はどうやら年々増えているようである。〉(強調傍線原文より)

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 はたして、わたしにとって「you」にあたる人はどれほどいるのだろう。

 

参照:内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫、2008、p270~4)