日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「隣(とな)る人」に育まれて(子どもの育ちを描いた映画から)

※「いのちとくらしの映画祭with湯浅誠」に参加する。生きづらい社会の中で困難を抱える子どもたちをめぐる二本のドキュメンタリー映画の上映と社会活動家・湯浅誠さんによる講演。

 湯浅氏の講演は「子どもの貧困から考える」との内容で、日本では七人に一人いるといわれている貧困問題には、子どもの健全な発達を保証できない親世代の労働問題、シングルマザーの貧困率の高さ、貧弱な社会保障、衰弱した地域社会など、一番弱い立場の子どもを苦しめてしめている現状がある。貧困には大きく2種類あり、重度の場合は地域住民だけでは対応できないが、そうでない場合も多くあり、地域の人たちでやれることもあるのではないかという提言であった。

 いろいろ思うことはあったが、ここでは2本のドキュメンタリー映画について触れる。

 

〇映画「みんなの学校」

 大阪市住吉区にある「大阪市立大空小学校」は「すべての子供の学習権を保障する学校をつくる」という理念のもと、不登校ゼロを目標とした学校作りを目指し、また、自分や他者の良さに気付いてともに生きる力を付けさせることを目指している。ごく普通の公立小学校でありながら、この延長として特別支援対象となる児童を区別せずに同じ教室で学ぶ取り組みを実施している。

 

 大空小学校では、特別支援教育の対象となる障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、そうでない子も、みんな同じ教室で学ぶ。開校以来、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきた。

 

 この学校が開校された頃、わたしは病院付きの養護学校(現・特別支援学校)に携わっていた。子どもたちの目線および身体状態に合わせて関わっていくという姿勢は多くの担当者にいきわたっていたと思うが、大人たちが描いた教育方針(各障がいに合わせたもので、物足りないと感じる子どももいた)に沿ってカリキュラムが作られていた。

 子どもの育ちには、多種多様の子どもたちと共に学ぶ機会が、日常的にあることが望ましい。地域の普通校の生徒との交流も年に数回作っていたが、非日常的であり、何とか同じ教室でいろいろな子と切磋琢磨しながら育つのがいいと思う教師もいた。だが、現実的に難しいとも思っていた。

 

 この映画を見ながら次のことを思った。

 理想やある理念を高く掲げた教師たちは、意識的・無意識的にかかわらず、その方針に子どもを合わせようとする傾向が強く出てきがちになる。

 この学校では、多種多様の子どもと共に過ごしながら、大人も共に育てられていく様子が描かれていた。おそらくどの子にとっても、有意義な体験になっていくのではないか。

 

 教育評論家の尾木ママは次のコメントを寄せている。

「驚いた!ここには、ありのままの公立小学校の魅力が、大胆に惜し気もなく躍動している。人間が発達可能体であることを、限界なしに教えてくれる。それにしてもスゴイ記録映画が完成した。学校と教育の未来に、希望が湧く映画である 」

 

 子どもの育ちに関心のある方に限らないが、困難な子どもを抱えた児童に直面している関係者には、特に薦めたいドキュメンタリー映画だと思った。

 

〇映画「隣る人」

 本作は、様々な事情で親と一緒に暮らせない子どもたちが「親代わり」の保育士と生活を共にしている児童養護施設、「光の子どもの家」の生活に8年にわたって密着し、その日常を淡々と丁寧に描いたドキュメンタリー映画。

 施設理念で次のようにいう。

「児童養護施設は原則として2歳以上の子どもたちに関わります。幼く小さいときの関わりは生涯にわたり影響を与えます。それ故、関わる大人はその生涯の責任を問われます。人はそれぞれ寂しさや悩みを抱えて生きています。そのような問題を隣り合いながら解決していく仲間・家族の家として、光の子どもの家はあります」

 

 この映画を家族とは何だろうと思いながら見ていた。子どもにとって、親身の「受けとめ手」は血縁関係と関係なく、ひたすら存在を受けとめるひとがいることが大事なのだろう。

 また、刀川監督が、8年をかけて施設の日常に寄り添い、目の前の現実に向き合い、職業としての保育士という立場の複雑さや、疑似家族としての養護施設の難しさも、さりげなく映し出しているように思った。

 

 さまざまな人がコメントを寄せている。印象に残ったコメントを三つ紹介する。

〈・三浦りさ(NPO法人子育てパレット代表):幼い頃に「絶対的な無償の愛」を受けることで自己肯定感が育つと言われています。私はこれを「親の愛」だと思っていましたが、この映画によってそうではない「隣る人」の存在があれば育つということに気づかされました。人が人として生きていくためには不可欠である「無償の愛を感じられること」「安心でいられること」「生きていていいのだ」と思える場所、それが児童養護施設である「光の子どもの家」にはありました。核家族の現代だからこそ、大人も子どももみんなでお隣に目を向けることができたら、きっと優しい社会ができるのだろうなどと考えさせられる映画でした。

・俵万智(歌人):「どんなムッちゃんも好き」。保育士のマリコさんの言葉です。そう思ってくれる人が隣にいること。子どもには、それだけでいい。けれど「それだけ」が非常に困難になっているのは、今の日本、児童養護施設に限ったことではないように思います。愛情とは、何か特別なことをしてやったり、まして期待したりすることではない。なんでもない時間を共有し、ひたすら存在を受けとめること。子どもとは、こんなにも愛情を必要としている生き物なんだと、せつなく、たじろぐほどでした。

・内田也哉子(文筆/音楽活動 sighboat):「果たして、自分は我が子にとって、ほんとうに隣る人なのか?」

 究極の問いが突き刺さる。子どもと生きることは、キレイごとばかりじゃない。喜びも疎ましさも複雑にはらむのが、人とのコミュニケーションそのものだから、親として、人の子としてこの世に生まれた以上、誰もが知る感覚に違いない。

 ところが、そんな弱音を持て余す私のような大人の事情なんてそっちのけで、子どもは日々、進化し、いつ何時もそこにある陽だまりのようなぬくもりを必要とするのだ。「光の子どもの家」の子どもたちの切実な想いは、かつて子どもだった自分の懐かしさと相まみれ、窒息するほど胸を締めつける。8年という日常に寄り添い、一切の誇張も、偏りもなく、これほどまでに静かに真実を見つめた映像が、未だかつて存在しただろうか。見る者の知と情に委ねられた、まっすぐな問いは永遠に消えない。〉

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 家族については、育児、親の介護など家族で見るのが当たり前という風潮があるが、いろいろな事情でそれが難しい家族もいるだろうし、親戚、近所の人など地域や施設で見ていく体制も欠かせないと思う。

 また、家族構成員の中に問題児がいると、どうしても家族に負担がいきがちになるが、やはり、そのようなことの専門家も必要だし、何かあったら助けたい融通したいと思う周りの人の存在、支援も大きいと思う。とにかく家族にだけ責任を押し付けることはなくしていきたい。一見福祉施策もそれなりに進められているが、まだまだ家族が抱えるのが当たり前と思っている風潮があり、それが大きな負担となっている母親や家族も多い日本の課題だと思っている。

 

 参照:次のインターネットで詳しく紹介されている。

・大空小学校のみんなー映画『みんなの学校』公式サイト

・隣(とな)る人 http://www.tonaru-hito.com/sakuhin.html