日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎先行世代から後続世代へ(内田樹『ローカリズム宣言』から)

 ※ここのところ身近な人が亡くなり、一方新たないのちが誕生している。そこで、改めて自分の立つ位置を考えてみる。

 最近ともすれば自己の衰えに目がいきがちになるが、そのことよりも、人生リレーの一員として、世話を受けてきた先行世代からバトンを受け、そのよきものを引き継ぎ、精一杯生き抜き、できる限りよきものを次の世代にバトンを渡したいと思っている。

 大学駅伝で注目されている青山学院の原監督によると、リレーの一員になる走者は、精一杯よりよきものを繋いでいこうとする心は独特のものがあるという

 ささやかなことしかできようもないが、気概だけは持ち続けていきたい。

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〇贈与と反対給付が根源的に人間社会を成り立たせてきたとの見解から、贈与論を展開している内田樹『ローカリズム宣言』に次のような一節がある。

 

〈私たちが享受しているもの、この社会制度も、言語も、学術も、宗教も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、僕たちが自力でつくり上げたものなんか、ほとんどありません。ですからこれをできるだけ損なうことなしに未来の世代に手渡さなければならない。贈与を受けたものには反対給付の義務がある、そのルールを内面化したもののことを人間と呼びます。商品と貨幣のやりとりというスキームでしか人間社会で起きていることの意味を考量できないものは、厳密には人間ではないのです。人間にしか共同体はつくれない。だから、現代日本では地域共同体も血縁共同体も崩壊したのです。〉(内田 樹『ローカリズム宣言』(74p)

 

 この著は移住雑誌『TURNS』連載の「若者よ! 地方へめざせ」に加筆したものである。

 基本インフラ(産業・生活関連などの社会資本)の建設がある程度整備され、人口減少と少子化が進む日本の経済活動が活性化する要素は存在しない。

 そのような中、あらゆるものが商品化され、「お金」に一元化されていく風潮に、ひとにとって本当に豊かな社会とは、生き方とはと問いかけていく。

 そして「いい加減、経済成長を目指すのを止めましょう」といい、これからは従来の「成長経済モデル」から「定常経済モデル」へ基本的な考え方を変えるべきではないだろうかと問う。さらにそこから脱出する方向性について、「ローカリズム」と「相互扶助的共同体」というプランを提出している。

 

 ローカリズム(英: localism)とは、中央による画一的・普遍的なコントロールに対して、各地方の独自性や特徴を重視・尊重し、そこに生きる人間たちや自然との関係性を大事にし、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をする考え方をいう。

 定常経済とは「経済成長を目標としない経済」、つまり「活発な経済活動が繰り広げられているものの、その規模自体は拡大していかないゼロ成長経済」のこと。

 

 これに関して、定常経済という考えを提唱したといわれている、ハーマン・デイリー「定常経済について語る」を参照してみる。

〈定常経済の定義は、「人口と資本ストックが一定で、それを可能な限り低いレベルでのスループットで維持するもの」となります。エントロピーの法則に従う人口や資本ストックを一定に保つには、維持したり置き換えたりするための資源が必要になります。この資源を地球から取り出し、汚染物として地球に排出するところまでをスループットと言います。この資源のスループットをできるだけ低いレベルにして、地球の扶養力の範囲内に抑えます。

 人口と資本を維持するスループットのレベルは、長期間にわたって人々が「良い暮らし」を送るのに十分であるということ。これが定常経済の考え方です。〉

※ハーマン・デイリー「定常経済について語る」(岩波「世界」2014年8月号)

 

「スループット」」というのは、地球、地域が持っている持続可能な処理能力のことかと思うが、よくわからなかった。

 ポイントは、「手持ちの資源をできるだけ高い質において維持する」ことになるのかな。

 

『ローカリズム宣言』第1章 脱「経済成長」グローバル資本主義は終焉する。で次のように述べている。

〈成熟社会とは「生理的な基礎的な欲求がすでに満たされている社会」のことです。ですから、消費活動が鈍化する。それは個人レベルで言えば「ありがたいこと」なんです。けれども経済成長しないと存立し得ない資本主義という仕組みにとっては「困ったこと」です。だから、成熟社会に達した後にさらに経済成長させようとすると、もうできることは限られてきます。

 一つは身体というリミッターを外すことです。衣食住の欲求とは関係のないものの売り買いに経済の主軸を移すことです。それが金融経済です。金融経済とは金で金を買う経済です。株を買い、債権を買い、土地を買い、ダイヤを買い、石油を買い、ウランを買う。これらはすべて貨幣の代用品です。「貨幣で貨幣を買っているの」のです。これならエンドレスです。(P22)

 

〈「成熟社会において経済成長を無理強いする手立てがあります。これまで誰もが等しく受けられた公共サービスを商品化するのです。「それなしでは人間が生きてゆけないもの」を全部商品にして市場で売り買いするようにする。自然環境、上下水道、交通通信網、電気、ガス、教育、医療、治安、消防……そういった制度資本を僕たちはいま無償あるいは安価で享受できています。それらは公共的に管理されていて、基本的には私有できないようになっている。

 近代市民社会というのは、人間が生きる上で必要なものは公共的に管理して、すべての市民が等しく享受できるようにすることで成立したわけですけれど、これを否定して、「それなしでは生きてゆけないもの」についても「受益者負担」の原則を適用して、「欲しければ金を出せ」というルールに切り替える。教育と医療については、もうすでにその切り替えは始まっています。」〉( p.24)

 

 自分たちが当たり前のように営んでいることのほとんどは、先人たちが時間と英知をかけてつくりあげてきたものであり、見直したり作り直したりすることはしていくとしても、よりよきものを後続世代に繋げていくというと考えることが大切ではないだろうか。

 特に、人々が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、福祉、司法、行政など)は機能停止しないように定常的に維持することが最優先されると思う。

 経済活動は人々の暮らしを支援するために人間が創り出したものであって、経済活動を維持するために人間がいるのではない。それが経済について考えるときの基本と思う。

 

 ここで「価値の遠近法」の見方が浮かんでくる。

〈わたしは「教養」や「民度」ということについて、次のように考えています。なにかに直面したとき、それを以下の四つのカテゴリーのいずれかに適切に配置できる能力を備えているということです。まず、絶対に手放してはいけないもの、見失ってはいけないもの。二番目に、あったらいい、あるいはあってもいいけど、なくてもいいもの。三番目に、端的になくていいもの。なくていいのに、商売になるからあふれているもの。そして最後に、絶対にあってはならないこと。-------

 大体でいいから、この四つのカテゴリーに仕分けすることができているというのが、教養がある、あるいは民度が高い、ということなのです。わたしはこれを経済学者の猪木武徳さんにならって「価値の遠近法」と呼びたいのですが、本当の意味での市民としての教養とはそういうことで、それが、市民性があるということだと思うんです。〉

(鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』)

 

 自分の身の回りを見ていくと、二番目以下が随分多いなと思う。杓子定規になることはないが、「絶対に手放してはいけないもの、見失ってはいけないもの」は、そのまま後続世代に繋げていき、四番目の「絶対にあってはならないこと」をなくしていきたいと願っている。

 どの段階にあるのか判断することは大変難しいことだと思うが、そのことを心においておくことはしていきたい。

 

 文献・内田 樹『ローカリズム宣言』―「成長」から「定常」へ( デコ、2017)

 ・鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』(角川oneテーマ21、2012)