日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日々彦「詩句ノート」、飯田龍太の俳句50句

〇わたしが選んだ飯田龍太の俳句50句

一月の川一月の谷の中  

一月の瀧いんいんと白馬飼ふ  

白梅のあと紅梅の深空あり

紺絣春月重く出でしかな

春の鳶寄り別れては高みつつ  

 

雪の峯しづかに春ののぼりゆく  

いきいきと三月生る雲の奥  

朧夜のむんずと高む翌檜  

満月に目をみひらいて花こぶし

春暁の竹筒にある筆二本

 

黒猫の子のぞろぞろと月夜かな 

春すでに高嶺未婚のつばくらめ     

野に住めば流人のおもひ初つばめ 

高き燕深き廂に少女冷ゆ 

黒服の春暑き列上野出づ

 

かたつむり甲斐も信濃も雨の中

緑陰をよろこびの影すぎしのみ  

嶺暸かに初夏の市民ゆく

夏の雲湧き人形の唇ひと粒  

炎天のかすみをのぼる山の鳥  

 

抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

子の皿に塩ふる音もみどりの夜

入学児脱ぎちらしたる汗稚く

嶺暸かに初夏の市民ゆく

どの子にも涼しく風の吹く日かな

 

夕焼けて遠山雲の意にそへり

黒揚羽九月の樹間透きとほり

鰯雲日かげは水の音迅く

鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり

新米といふよろこびのかすかなり

 

灯の下の波がひらりと夜の秋

秋冷の黒牛に幹直立す  

母が割るかすかながらも林檎の音

毒茸月薄目して見てゐたり

天つつぬけに木犀と豚にほふ

 

露の村墓域とおもふばかりなり  

露草も露のちからの花ひらく

手が見えて父が落葉の山歩く  

落葉踏む足音いづこにもあらず

亡き父の秋夜濡れたる机拭く  

 

大寒の一戸もかくれなき故郷

雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし

雪山のどこも動かず花にほふ

山河はや冬かがやきて位につけり

父母のなき裏口開いて枯木山

 

ねむるまで冬滝ひびく水の上

冬晴れのとある駅より印度人

梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬

亡きものはなし冬の星鎖をなせど

生前も死後もつめたき箒の柄

 

〇2018年四季折々(2月25日~3月3日)

(2月25日)・風かたか歌い踊って凍解けへ

 三上智恵監督『標的の島 風かたか』(2017年製作)を観る。

 沖縄をテーマにした作品を撮り続ける、三上智恵が『標的の村』『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』に続けて放つドキュメンタリー。「風(かじ)かたか」とは防波堤のこと。激しい抵抗や衝突だけではなく、古謝美佐子が歌う「童神(わらびがみ)」をはじめエイサー、パーントゥ、アンガマ、豊年祭など抵抗を重ねる人びとの姿にかさなるように映像が絡む。

 今の自分は紹介する以外何かできるわけではないが、このようなことに直面したらどうするだろうかなど、半ば涙をこらえながら見ていた。

 参照:http://hyotekinoshima.com/introduction/

 

(26日)・かの世では龍太と兜太花の宴

 昨日は飯田龍太忌である。「作句のポイントは、一日一句を作り続けること」など、俳句はもちろん、折に触れて金子兜太などと共に、その言葉を楽しみにしてきた。

〈「露の父碧空に歳いぶかしむ」:俳句は私小説だと言った人がある。私はむしろその「私」的部分をなるべく消す努力をしたいと思っている。たとえばこの「父」の場合でも、たしかに私の父だが、同時に「父一般」に通ずるものがないと作品としては不完全だ。他に通用しないものなら堂々と「露の蛇笏」とすべきだろう。だが、そうなると作品は更に下落する。〉(『自選自解飯田龍太句集』)

 

(27日)・春うらら心の通う共同体

 知人執筆中の小説などから、頭・観念でつながる共同体と、心・知性でつながる共同体について考えている。共同体とは、特殊なものだけでなく、共同幻想としての国家から家族まで含んだ、そこで人々が協同しながら暮らす場としてみている。それは、質のよい人間関係とはどういうものかという課題とも繋がってくるのではないだろうか。 

 

(28日)・もらった人生楽しみだねと山笑う

「すい臓がん術後20ヶ月。検査結果。転移無し。ほっとする。」と友人のFacebook投稿があった。数日前に別の件で電話があったとき、転移の覚悟のような話があり、妻と心配していたので、これは何とも嬉しかった。

  その友人の記事に対し、数人から「よかったね」のコメントに、「皆さんありがとう。もらった人生大いに楽しみます。夫婦共々。」と、彼らしい明るい返信があった。

「もらった人生」とは、ある意味、本質を突いた言葉のような気がする。個人的な何の計らいもなく、何かの相乗効果で贈られこの世に生まれてきたともいえる。だとしたら、「もらった人生大いに楽しみます。」と素直に言えるのは大きなことではないだろうか。

 

(3月1日)・春一番帽子はわれを放さない

 今日は春一番らしく、神戸でも強風が吹いていた。用事があり出かけたが、足元がおぼつかないので慎重に歩く。「雪道を転ばぬように転びけり」というような俳句があったが、過剰に意識することで「よりぎこちない」になるかもしれないが。

 

(2日)・のどけしや生身のままにする対話

 内田樹『街場の共同体論』を読む。そのなかの「コミュニケーション能力とは何か」に内田らしい次の表現がある。

「コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、身を乗り出す他にありません。------相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションはそこで息を吹き返す可能性があります。」(内田樹『街場の共同体論』)

 対話の失調について嫌な思い出がある自分にとって、いろいろ思った。

 参照:http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php

 

(3日)・三陸は春一家揃って海が好き

 NHK・ETV特集「カキと森と長靴と」を観る。

 東日本大震災の津波で海の生き物はズタズタにされたように見えたが、「森は海の恋人」といい、森に木を植え続けたことで知られたカキ養殖士・畠山重篤は、「海は自らの力で必ず回復する」とカキ養殖を再開する。NHKは震災直後から養殖再開に挑む畠山を密着。畠山一家の心温まる交流を交えながら、海と山が融合しながら浄化していく様を描いた映像作品。特に孫との交流がほのぼのと伝わってくる作品だ。

 ※3月8日に再放送がある。