日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎社会的な生きづらさを抱えて(発達障害の当事者の話から)

※2015年4月に書いたものを改訂して再録。

〇発達障害の当事者が自らの障害を語る講演会が松江市であった。発達障害は、親のしつけや教育の問題ではなく、先天的な脳機能の障害とされる。自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害などいくつかのタイプに分類されている。

 発達障害は個人差がとても大きく、本人も周りの人もよく分からないケースも多い。コミュニケーションや対人関係をつくるのが苦手で、その行動や態度に「自分勝手」「変わった人」「困った人」などと誤解され、敬遠されることも少なくない。

 一人ひとり違いはあるが、あえて、いくつかの特徴をあげると、
・対人的な関わりにうまく対応できない(場にあった行動がとれない)
・他人の気持ちにこだわり、読心術ができているかのような妄想を持つ
・コミュニケーションの障害(相手の気持ちがつかめない 話がかみ合わない)
・行動、興味、活動が限定していて反復・常同的  などとなる。

 当日は、大阪在住のG氏(46)が「自閉症と私」と題して講演。Gさんは看護短大を卒業後、介護の仕事に就いてから、利用者とのコミュニケーションに悩んだ経験を明かしていた。そして、38歳の時にうつ病を発症して発達障害と分かり、「原因が判明し、ホッとした気持ちもあった」と語っていたことに、感じるものがあった。

 現在は就労支援事業所に務めていて、「人の話を聞き、信頼関係を築くよう心掛けている」と述べ、自分の特性を知って工夫する必要性を強調していた。

 

 私の知人が、50歳代になってから初めて精神科の診察を受けて、アスペルガー症候群の認定を受けた。彼女は純朴でいい人だと思うのだが、戸惑うことが度々あった。

 この話を聞いて、福祉関連の活動をしていた私の中で、「あーそうだったのか」と随分納得するものがあった。それ以上に、本人自身が大きな安心を覚えたようだ。おそらく本人自らが相当悩んでいたのではないだろうか。

 その後の彼女の動きを見ると、このことが大きな転機となり、支援グループや仲間との交流のなかで、自分のことをよく観察する機会に恵まれたようで、今は穏やかに暮らしているそうだ。芸術関連の分野では、アスペルガー症候群の人もかなりいるようなことも聞いている。

 このことは、二つの課題があると思っている。
 一つは「自分を知る」ことの大きさ。自分の行為、言動、思考、感情などが、どのような内面、育ち、どのような社会関連から生じているかを観察する、探っていくことの大切さ。

 二つ目は、私たちは表面の現象に現れたもので、人のことを分かろうとしている、分かったつもりになっている。その現象がどのような内面から生じているのか。あるいは、その人の内面はどうなっているのだろうかと、見ていくことの大事さ。それが尊重ということ。

 

 自閉症については、小澤 勲『自閉症とは何か』(洋泉社,2007)に、「自閉は人と人とのかかわりのなかで生起する事態とみるべきであり、症状としてとらえるべきではない------自閉症範疇化の中核症状は自閉である、というのが筆者の結論である」とあるように、生物学的、医学的あるいは心理学的概念であるよりは社会的範疇として把握されるべきであるとの論がある。

 対人関係やコミュニケーションの取りづらさについて、私もそのように思うときもあり、弱い立場にある人には、なおさらつきまとうような気がしている。

 自閉症やアスペルガー症候群に限らず症状によっては、社会的な生きづらさでとらえていくことが、その本質に迫っていけるのではないかなと思っている。

 大きな不自由をかかえていても、どのような人でも、生き生きとした安定した生活を送れるような社会が望ましいと考えている。

 以下に、若い当事者の、暮らしに根差したエッセイをあげる。

 なお、発達障害者や自閉症の人たちの、他人との関係づくりやコミュニケーションの取りづらさの視点から、人がどのように社会性を身に着けていくのかという「社会脳」研究者の研究課題としても取り上げられている。

 

【参照資料】
東田直樹 「オフィシャルブログ 自閉症の僕が跳びはねる理由」から
「原始時代からタイムスリップ。批判、駆け引き、競争が苦手」

「あの人変だよね」
 この言葉を聞くたび、私は泣きたい気持ちになるのです。他の人からの刺すような視線に耐えられず、その場から逃げ出したいと、いつも思っています。

 街中で、わけのわからないひとり言をつぶやく、おかしな動きを繰り返す、ピョンピョン跳びはねる、そんな人を見かけたことはありませんか?

 見かけても、かかわりたくないと避けたり、顔をしかめたりされた方もいることでしょう。

 身体のどこも悪そうに見えないのに、言葉が通じない。意味のない行動ばかりやりたがる。普通の人から見れば自閉症は、わからないことだらけの障害だと思います。

 話せないから、心がないのでしょうか。
 みんなと違うから、異星人なのでしょうか。

 私は、自閉症とは、自分で自分のことをうまくコントロールできない障害だと考えています。
 なぜなら、自分はまるで、壊れたロボットの中にいるようだと感じているからです。

 たとえば、先生から指示が出されたとします。みんなはすぐにその指示に従うことができますが、私は話の内容は理解しているのに、どうすればみんなのように、言われた通りに行動できるのかが、わかりません。
 みんなと同じことができない。

 自分勝手に動き回り、先生やみんなに迷惑をかけ、怒られてばかりの私は、人の役に立ついい子になりたいと、心から願いました。しかし、話そうとしても頭の中が真っ白になるので、弁解どころか、人に謝ることさえできません。こんな毎日が、つらくてつらくて仕方ありませんでした。「何のために生まれてきたのだろう」
 動物のように奇声を上げ、人の言うことを聞かず、自分のペースで生きようとする。自閉症の私が、この社会で存在する意味を知りたいと思うようになりました。

 

 本当の私は、誰からも制約を受けることなく、時間の枠を超え、ただひたすら声の限りに叫び、大地をかけていたいのです。あるいは、音も言葉もない静寂な水の中で、じっと息を殺し、永遠に続く宇宙の鼓動を感じ続けていたいのです。
それこそが、私の憧れる世界であり、生命の輝きを感じる瞬間です。

 けれども、この社会では、そんな自由は許されません。生きるためにやらなければいけないことが、たくさんあるからです。自立のために、私も少しずつですが、自分でできることを増やしています。

 お日様を見れば、光の分子に心を奪われ、砂をさわればその感触に全神経を集中させてしまう私たちですが、決して人が嫌いなわけではありません。声をかけられても知らん顔をするのは、近くにいても気づかなかったり、どう答えていいのかわからなかったりするためです。

 人は誰でも、ひとりで生きられないことを知っていると思います。自閉症者は、普通の人が考えている以上に、自分のことをわかっています。

 常に成長しなければならない現在の社会では、自閉症者は、じゃま者でしょうか。
自閉症者の中には、こだわりなどの特徴を生かして、社会で立派に働いている人もいますが、目立たないように、ひっそり暮らしている人も多く存在しています。

 自閉症は、近年増えてきているそうです。
 その理由を、世の中の人にも、考えてほしいと思っています。

 まるで、原始時代からタイムスリップしてきたような自閉症者たち。人を批判することも、駆け引きをすることも、競争することも苦手な人間。
 私たちを見て、あなたは、何を感じますか?
(2009年11月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 130号より、東田直樹さんのエッセイを転載)