日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日々彦「詩句ノート」サルトル『嘔吐』から

〇瀬戸内寂聴・齋藤慎爾『生と死の歳時記』の「日記」の項で、齋藤がサルトル『嘔吐』から引用している。

〈・「日記をつけるときは、つぎのことが危険だと思う。すなわち、万事誇張して考えること、待ち伏せをする気持ちでいること、たえず真実をでっちあげることである」。

・「いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き留めておくことだろう。はっきり理解するために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、色合いを、小さな真実を、見のがさないこと。どういうふうに私が、このテーブルを、通りを、人びとを、刻みたばこ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変わったのは《そっち》だからである」。〉

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『嘔吐』は、主人公が、<もの>に触れたときに、何か自分の中に不快感を覚えたことに気づいて、「あまり遅くならないうちに自分の内部をはっきり見ておきたい」と思って日記をつけ始める。孤独な主人公の思索を日記という形式で「在ること」「実存すること」について物語は展開する。

 

「万事誇張して考える、真実をでっちあげる」というのは、そういう傾向は多かれ少なかれあるだろう。危険の内容で、「待ち伏せをする気持ちでいること」は面白い見方だと思う。

 あることが閃いてぐっと身に迫ってくるのは、意識しているときよりも、何か無意識に湧き上がってくることが多いように思う。強く意識するときは、何とか作り上げるような虚構性を帯び、現実・実際とはかけ離れていくことが多いのでは。

 かといってぼんやりしているわけではなく、あることをずーっと考え続けているとき、不意に湧き上がってくるものだろう。

 そういうことを文章として、理路整然としていなくても、取るに足りぬことのようでも、色合いを、小さな真実を、見のがさないこと。その気づきの過程を残しておくのも日記の役割かもしれない。

  なお、これは文学作品であり、日記は、それぞれが工夫しながら、作り上げていくものだろう。

 

〇2018年四季折々(大晦日から1月6日)

(大晦日)・冬木立未生のいのち内に秘め

 年末から息子、娘が泊りがけで寄ってきて、狭い我家のなか寝る場所を確保するなど、とても面白く過ごす。子ども達といろいろ話す中で、それぞれの中で、新たな何かが始まろうとしているのを感じる。

 

(1月1日)・永遠の中のひととき初明り

 元旦の夕方から、娘夫婦と一緒に、総勢6人で西宮・戎神社に参拝に行き、その後、寿司屋兼居酒屋で会食する。

 元旦というのは、暦の上では単なる通過点の一日だが、こころ新たな門出にもなるように思う。おそらく戎神社に参詣した数多の人にとっても、わたしにとっても。

 

(2日)・年新た不易流行句づくりも

 昨年は、様々な人と出会うことが続く。中には15年~20年ぶりにお会いした方も多く、懐かしい思いとともに、様々な刺激を受けている。それぞれ変化したところはありながら、何かその人らしさが維持されているのを感じた。ものごとは時の経過にしたがって、一貫して変わらない本質とともに、新たな要素も備わってくるのだろう。

  ※“不易流行”とは、芭蕉由来の蕉風俳諧の理念の一つ。『去来抄』に、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」(普遍的な俳句の基礎を学び、その基礎の上に新しさを追い求めないと、陳腐なものになってしまう)とある。

 

(3日)・戌年やワレも加えよ犬談義

 芦屋川から東神戸港への川沿いから海沿いにかけて、散歩コースとしてよく利用し、午後遅くに散策する。

 途中、入江で水上スキーを楽しんでいる人たち、浜辺で凧揚げをしている人や家族連れで楽しんでいる人などを見学する。正月に限らないが、犬を連れた人同士でお互いの犬を鑑賞しながら団欒している微笑ましい景観にも出会う。なかには、犬も正月らしく着飾っている。

 

(4日)・読み始め近代俳句は一茶から

 池澤夏樹『日本文学全集』12巻は、芭蕉」・蕪村・一茶など俳詩人の特集だ。その中の、一茶=長谷川櫂「新しい一茶」は面白く、二度目になるが音読しながら読みこんだ。

 現在もっとも大衆化した文芸である俳句は、芭蕉を嚆矢とする、17音に自分の「生」を賭ける人から、趣味として手軽に遊び心でつくる人まで幅広くすそ野が広がっている。

  長谷川櫂は、芭蕉は古典を熟知したうえでの俳句を作り続けた古典主義の俳人で、古典を知らなければ、味わえない俳句もある。「簡単な言葉で素直な心情を詠んだ一茶の俳句を起点として近代俳句の枠組みは立て直されるだろう。」として、「新しい一茶」を書いた。

 

(5日)・濃やかな欠名賀状天からか

 この度は、ブログやFacebookなど普段交流している人などは、賀状を出すのをだいぶやめにし、一年のこの時だけの交信が多くを占めるようになる。年末のブログ整理などであわだたしいやっつけ仕事のような感もあるが、簡単な近況に添えて、一人ひとりを思い浮かべながら一言を付け加えた。だが、年々欠礼葉書もふえてきて、老齢化・病気などにより出せない人もあると思う。今後、年末に書くような年賀状をどのようにするか考えどころである。

 いただいたものは、写真あり絵あり俳句あり、定例の印刷文面だけのもの、ご自分の名前を書き忘れている欠名?(推察でわかる)のもあった。どれも懐かしさは覚える。

 

(6日)・ままならぬ便の清拭こころ冴ゆ 

 いつも交信していた人から賀状が来なかったこともあり、何か気がかりなものがあって電話をかけてみた。家族の排泄関連で大層難儀していて、やるせない日々が続いているという。

 思いと実際の体の動きとがそぐわなくなるのは老齢化の特徴である。特に自覚を伴わない排泄は、当事者だけでなく、その始末をする周りのものも大変になる。とにかく家族だけで抱えないようにしたいと手を打ち始めたそうである。

 多少体験があり話を聞く、情報を提供するなどは自分のやれる事だと思っている。