日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎固定観念としての健康観(イヴァン・イリイチ「管理された健康に抗して」から)

※健康について(イバン・イリイチ「管理された健康に抗して」から)タイトルを変えての改訂再録。

 

〇健康は,一人ひとりの人格に応じて定義され、一人ひとり違ったしかたで求められる。

  固定観念は、「俺は絶対にこう思う」というのもあるが、時代や環境に影響された思い込みの場合も少なからずある。無意識に使っているので、固定観念だと思っていないことが多いが。

  食をはじめ生活習慣、考え方のパターン、心の持ち方など、子細に見ていくと無意識な固定観念で見ているのではないか思うこともたびたびある。朝食を取らないことをかまびすしく言うなどはその例だと思っている。

 

 健康概念について、イバン・イリイチ「管理された健康に抗して」を読んで共鳴することがあり、いくつか触れてみる。

 イリイチについて、ケア(世話をする)のあり方について調べたことがあり、ケアそのものが持っている意味合いから離れて、福祉行政や専門家主体のケアシステムの構築はケアに一切を依存することで生じる人の持っている自立性(生きる力)を喪失させるのではないかとの見解だと思い、印象に残っていた。

 

「管理された健康に抗して」に、次のような文章がある。

〈社会制度が進歩したかしないかということは、まず第一につぎのような点においてはかられます。つまり、そうした社会制度の進歩によって、個人や第一次集団(としての家族)が自力でおこなう活動によってみずからの欲求(ニーズ)をみたす能力を増大させたかどうか、ということです。わたしが「自力でおこなう活動」と呼ぶのは、そうした活動によって、人びとが、みずからの欲求(ニーズ)を定義するような活動、つまり、そうした欲求(ニーズ)をみたす価値をつくりだす過程そのものであるような活動のことです。(『生きる思想』「管理された健康に抗して」藤原書店、1999より)〉

 

 家族という単位から、ある種の考え方による集団、コミュニティ、国に至るまで共同体を見ていくとき、一つの目安として、幼い子どもたちやお年寄りなど弱い立場にある人たちが、いかに生き生きと暮らしているかどうかによってはかられると思う。

 

「社会制度が進歩したかしないかということは、(まず第一に)「個人や第一次集団(としての家族)が自力でおこなう活動によってみずからの欲求(ニーズ)をみたす能力を増大させたかどうか、ということです。」によってはかられるという。これはイリイチの考え方に一貫して流れている基底音だと思う。

 

 イリイチの言う「自力でおこなう活動」は、「自立共生」という用語で語っている。

〈自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。(『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二・渡辺梨佐訳より)〉

 

  出産から葬儀、食糧の調達から下水処理、介護や病気の世話まで、お金を払ってサービスを受けられるようになって久しいので、自分や身近な人への「いのち」の面倒を見る能力が随分と低下し、安易に行政や専門家、サービス業者が供給するソーシャルサービスの消費者・顧客にしているのではないだろうか。今の時代、ある程度それを活用していくのも必要だと思うが。

 

  同文中の〈健康とは、まさに、サービスを受けるということではなく、サービスには頼らないということなのです。〉とあるように、まずは、自身や身近な人が持っている自活力や自然治癒力を活性化することが大事だと思っている。

 

〈一つの立場では、健康とは、基本的には、操作的に検証される体調のよさであり、それは、もっぱら専門家の手で推進され、養護され、管理されるものです。いまひとつの立場では、健康とは、基本的には、一人ひとりの人格に応じて定義され、一人ひとり違ったしかたで求められるものです。そのような健康は、商品を入手する権利だけでなく、使用=価値をつくり出す自由も同時に政治的に保護されているところで花開くものなのです。(『生きる思想』「管理された健康に抗して」藤原書店、1999より)〉

 

  健康に限らず、生き方、考え方は百人百様それぞれ異なっていることは当然で、「食」をはじめ生活習慣もいろいろな影響を受けながら、同じような傾向はあるにしても、一人ひとり違った方式を取り入れていると思う。

  どこまでも自分はこう考えている、こういうやり方をしているという、そのことをグッと基本に据えながら、人に勧めたり、アドバイスをしたり、注意したりするのは大いに結構で参考にもなる。大きく見直す契機にもなる。だが、基本的には本人自らが見出していくものだろう。