日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎再録「新間草海著『叱らないでもいいですか1』を読んで」

*昨日、新間草海氏のブログ「佐々木正美先生について」を紹介した。そのブログをもとにした著書を2年前に紹介した。此度その記事を掲載したブログを閉じることもあり、とても面白いので、ここに再録する。

〇Sくん、しあわせになりなよ!
​ 新間草海著『叱らないでもいいですか1』を読む。
 教師時代の苦い体験のある妻は、このような教師がいれば確実に学校は変わっていくね、と絶賛している。同感だ。
 新間氏の教室や小学校職員室の様子が目に浮かぶように、生き生きと描写されている。最近読んだ本の中でもずば抜けて痛快だ。随時、落語の口演速記のような語り口も楽しい。
 名人五代目志ん生の落語は、熊五郎や八五郎、隠居、与太郎、おかみさん、娘、殿様、盗人、大悪人など、どれを演じても志ん生のそれになっていると言われている。
 新間氏の語りは、それとは違って、猫の手のようなものがちらちら見える程度で、小学一年のYやSくん、MやRさん、発達凸凹のTくんなどの様子がくっきりと浮かび上がてくる。職員室等の目標達成型、ハングリー精神系、夢の成就型教師などの捉え方も面白い。

 

・ ブログの扉 『叱らないでもいいですか?』
「叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て。
大人の一人ひとりが、素にもどり、素でいられる大人たちが集って、
ありのままでいられる子どもたちを育てます。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、
そして、そこから、決して見失うことのない、
本当に願っている社会をつくりだそう、とするもの。」
(新間草海(あらま・そうかい)/著から)

 

 生まれ落ちてから人は、仕付けや様々なことを習って、社会性を身に着け、成長し大人になっていく。と一般的には言われている。
 そのような面もあるが、余計なもの(観念)を着けることで、不自由に、不幸に、つまらなくなっていくことも多々あるだろう。
 この本で「叱る、叱らない」ということに大きな比重をかけて、様々な角度から取り上げて考察している。
「叱る、ほめる」というのは、そのことで簡単に善悪の観念がつきやすい。単純な教師は、生徒のした何かよくないこと(その教師から見ての)に出会うと、それが起きてくる元の心を考えることを全くせずに、単に「叱る」ことで解決すると思っている。

 また、新間氏は変な観念、知識で頭でかっちになるよりも、一人ひとりの感性や感情など情緒を豊かにしていくこと、そのため、本音を言えること、全く評価をしない、などに心をおいているようだ。
 一方、科学的な思考、見方を大事にしている。科学的というのは、素直な疑問を大切にし、世間の常識的な見方などにとらわれず、どこまでも探りながら、簡単に分かろうとしないで、もっと調べたくなる、やればやるほど謙虚になっていくような、のびしろがあること。
 そのためもあり、話し合いを大切にしている。生徒からは算数などよりも歓迎されているようだ。

 

(2014.05.18「ひとのせいにする」を話し合う)で、
《人生の中で、小学校は、ある意味で一番、「人間の生き方」を考えられる時期なんじゃないでしょうか。
 大人は、すでにあまりにも巨大な問題を相手にしなければならず、
「人間の生き方? ・・・それどころじゃねえだろ!」
という状態なので。
 緊急かつ喫緊の問題に、全力で対処しなければならない。
 根本から考えることはほとんど不可能。
法律や政治の問題など、複雑極まりない事象を、どれだけ複雑に考えられるか、という競争です。
 勝つか負けるか、とりあえず、目の前の土俵で、寄り切るか、切られるか、という感じですものね。
というわけで、小学校だけかも・・・。
 こうして、人間の行動、ふるまい、考え、心情、ありとあらゆる人間の問題を、根本から考えることのできる環境は・・・。》

 小学一年生の素直な感性に触れて、少し躊躇するものがあったが、「幸福」「幸せ」などのことばも使い始め、6歳ほどの子どもにも浸透していく。
 ある時、延々と拗ねているSくんに向かって、ある女の子が「もう!」、「ダメ!」と一喝。その後、間髪を入れず、「そんなんじゃ、幸せにならない!Sくん、幸せになりなよ!」
 新間先生、思はず絶句。6歳って、すごいなあ、と思う。(2,014、3,30)

 

(2013年9月22日 口答えのない教室)で、
「教師は、自校や近隣の学校のみの交流だけでなく、せっかくインターネットやブログ、という手段があるのだから、学校経営等や自分の理念についても、いろいろとさらけ出して、交流していくといいと思う」と述べている。