日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎こころのなかに春を培う

〇紅葉の樹々に思うこと

 紅葉・黄葉は、主に落葉広葉樹が落葉の前に葉の色が変わる現象で、日照時間が短くなり、気象条件が光合成に適さない冬を迎える前に葉の老化反応(植物学的)が起こる。紅葉、黄葉、褐葉の違いは、植物によってそれぞれの色素を作り出す能力の違いと、気温、水湿、紫外線などの自然条件の作用による酵素作用発現の違いが、複雑にからみあって起こる現象とされる。

 一方、この過程で光合成の機能などが分解され、葉に蓄えられた栄養が幹へと回収され。翌年の春にこの栄養は再利用される。また蕾は越冬芽のなかに包みこまれ、冬の寒さに耐え翌年の春を待つ。

 この繰り返しで、樹齢数百年の樹々も大木になっていく。

 

  園芸にも造詣が深かった作家カレル・チャペックは、次のようにいう。

〈翌春に咲く花は密かに秋にその根を伸ばし、秋に咲く花は春には芽吹いているように、未来は既にこの現在の中にもあるんだろう。------

 われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。一〇年たったら、この小さな唐檜が一本の木になるだろう、と。早くこの一〇年がたってくれたら!五十年後にはこのシラカンバがどんなになるか、見たい。本物、いちばん肝心のものは、私たちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さとうつくしさがましていく。ありがたいことに、わたしたちはまた一年としをとる。(カレル・チャペック『園芸家12ヶ月』より)〉

 

 私たちの一般的な季節感では、春は生命の息吹が芽生え、夏は生命が躍動し、秋は生命の豊かな実りを迎え、そして冬は来るべき春に備えて生命のエネルギーを蓄える時というイメージがある。しかし、人生の季節では、老年期は秋から冬になる時期だが、巡ってくるべく春が描けないことから、 寂しいイメージになる人がいる。会うたびに、「早くお迎えに来てほしい」と言っていたわたしの母のように。

 

  福祉関連の活動や知人に接して、寂しさを感じさせる人もいれば、素朴な明るさあるいは輝きを感じさせる人もいる。

 好きな活動だけをする、俳句や絵画に精進する、読書三昧、料理を極める、好きな山に登り続ける、ある研究を続ける、日々の出来事を学級していく、夢を描き仲間とともに調べあうなど、ささやかでも一人ひとりの未来があり、それぞれの春を感じさせてもらうことがある。

  あるマラソンランナーの、遠くに見える電信柱や建物を目指して、まずそこまでを目的にして、その連続で最後まで走り抜けるといっていたエピソードがある。そのように身近なところで、現状を味わいながら未来を描き行動に移すことは、どのような状態にある人でもできそうである。

 

  私自身はどのような年齢、状態になろうとも、現状をそのまま受け入れ、まずは、身近な人との暮らしを楽しく味わいながら、いろいろな出来事や自然、風景の中に人生の機微を見出してゆきたいと思う。

  寂聴さんも『生と死の歳時記』で触れていたように、ひとも70歳代は晩秋の季節かもしれないが、身体の花や葉が劣化していこうとも、心の花や葉の、いのちの営みが、ひそかに息づいているのかもしれない。