日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎叔母の死に触れて、戦争のこと

〇叔母の死
 3月10日に叔母が亡くなり、すぐに叔母の家にかけつけ、拝ましてもらう。普段からこぎれいな方であり、穏やかな寝顔でやすらかな感じがした。死因は急性心臓病、享年84歳。

 教職退職後、しばらくして社会福祉法人「放泉会」に関わり、その中で、かなりの高齢にもかかわらず「サンチャイルド長久さわらび園」の園長として、昨年の3月まで勤めていた。叔母は、各方面で活躍されていて、かなり知名度があり、葬儀には数多の弔電、参列者も多かった。

 様々な弔辞などに触れて、叔母の人となり、前向きに生きていこうとするエネルギー、あの社交的な明るさはどのようなものだったのかなど思いながら参列していた。

 私は2007年の12月に、妻の九〇歳を越える両親と暮らすため三重県鈴鹿市から島根県出雲市に移住した。義父母の状況からみて二人暮らしが厳しくなってきていたこと、義父母の期待や義姉夫妻と叔母(義父の妹)の力強い後押しもあり、四人での暮らしが始まった。四人合わせて三百歳を超えていた。
 叔母は出雲から車で30分ほどに居宅があり、高齢化した義父母を気にかけていて、私たちが一緒に暮らすようになっても度々訪ねてきていた。

 義父母の朝鮮での暮らし、戦争、元山からの引き揚げ、その後の出雲での暮らしと、長年にわたって義父母一家の一員であり、戦後生まれの妻も叔母を「大きい姉ちゃん」と近年になるまで呼んでいた。
 義父母が亡くなったあとも、何かと家に来て、いろいろな話を交わした。私には多少遠慮するものがあったが、妻に対しては言い易いのか、あけすけにいうことが多く、ときおり妻も戸惑っていた。

 叔母のすぐ近くに暮らしている次男一家は、随時出雲の畑がある我が家に遊びに来ていて、叔母と一緒に来ることもあった。私たちが出雲に来た頃赤ん坊であった孫の長女やその後生まれた次女は、畑がお気に入りで、私たちも来るのを楽しみにしていた。今回会ったのは2年ぶりだが、子どもの成長ぶりを感じた。

 

 印象に残っている叔母のことで、朝鮮・元山からの引き揚げ体験の話がある。2013年8月にNHKスペシャル「 知られざる脱出劇〜北朝鮮・引き揚げの真実」が放映された。その番組を見ていた叔母からじっくり話を聞く機会があった。

 NHKスペシャルの番組紹介には、次のように書かれている。
「終戦のとき北朝鮮にいた日本人民間人約30万人はなかなか日本への引き揚げが許されず、飢えと寒さの中で3万数千人が死亡した。生き残った人の多くは、ソ連軍の監視をかいくぐり、大きな犠牲を出しながら 「自力」で38度線を越えて北朝鮮から脱出した。一体なぜ、日本人民間人は自力脱出を強いられたのか? 番組では、新発見のソ連軍内部の文書などからその謎を解明しながら、知られざる脱出劇の真実に迫ってゆく。」

 

 その脱出のとき、当時2歳になった妻の姉を負ぶったのが当時12歳の叔母である。見つからないように命からがらの体験であり、赤ん坊が泣くと見つかってしまう恐れがあり、叔母は「私にとってとても忘れることができない原体験だった」という。
 いつも社交的で華々しい感じがある叔母とは違って、しんみりと語り続ける姿に、あとで、妻は「あんなおばさん見たことないわ」と言っていた。
 叔母はその番組については、かなりの衝撃を受けたといい、義父母が作製した『元山脱出』は、子や孫などにも伝えていきたいねと仰っていた。

 現在、中学生である孫と同年代のときに、2歳になる妻の姉を背負っての脱出行を聞いていて、この度、12歳時の叔母の視点から読み直してみて、別の角度から様々なことを思わされた。

 

【参照資料】
※以前のブログから再録
〇義母一家の戦争体験と元山からの引き揚げ
 義父母は、平成8年80歳の時『元山脱出』という手作りの小冊子を作成し、身近な人に配った。義母が書いたものに、義父が表紙絵を添えたものである。
 そこには、「引き揚げて五十年目を迎えるに当り往時を回顧し子や孫に語り継ぎたく拙いペンを取りました。」とある。
その後平成15年に、「日本の歴史の大変動の波を受けた体験を是非子や孫に伝えたくて拙い字を綴っていましたが、米寿を祝って次女泰子がワープロで書き換えてくれました。」とあるように、小冊子を印刷様に仕上げて、親族、親しい人などにも配布した。

 私たちが出雲に移住してから、その話題が出ることがあった。太平洋戦争時の様々な体験を語り伝えていくことに、何故か私も関心があり、義父とはその話をよくした。
 義母は短歌をたしなみ、地元のサークルに参加して、いろいろなところに投稿していた。その短歌にも、その頃のことについて詠んだものもかなりある。

 義母とは、目が不自由になりグループホームに入所してから度々見舞いに訪れ、その前よりもよく話をするようになった。認知的に衰えていて、1時間前の食事をしたことも、曖昧であったりしたが、朝鮮時代や、北朝鮮からの引き揚げのことはよく覚えていて、尋ねると、生き生きと様々なことを語ってくれた。

 

 2013年8月にNHKスペシャル「 知られざる脱出劇〜北朝鮮・引き揚げの真実」が放映された。
 NHKスペシャルの番組紹介には、次のように書かれている。
「終戦のとき北朝鮮にいた日本人民間人約30万人はなかなか日本への引き揚げが許されず、飢えと寒さの中で3万数千人が死亡した。生き残った人の多くは、ソ連軍の監視をかいくぐり、大きな犠牲を出しながら 「自力」で38度線を越えて北朝鮮から脱出した。一体なぜ、日本人民間人は自力脱出を強いられたのか? 番組では、新発見のソ連軍内部の文書などからその謎を解明しながら、知られざる脱出劇の真実に迫ってゆく。」

 番組では、今村了さんと横田君子さんの保存していた資料を取り上げている。
 咸興に到着した今村さん一家は大勢の日本人とともにソ連軍に収容され、不衛生で食糧もない生活を強いられた。そこでは、日本人は肉体労働やソビエト軍の仕事に従事。最大の仕事は自らの墓穴を掘る仕事だったという。冬季に現地日本人の1割が死ぬとみられ3000人分の穴を掘った。さらに今村さん一家は伝染病の発疹チフスにかかり隔離されたが、高熱にもかかわらず殆ど治療は行われなかった。この中で父母は死亡。死者の数は7778人に上った。などが紹介された。

『元山脱出』には、当時2歳未満の長女(妻の姉)と、義父の妹である当時12歳の叔母などと一緒に引き揚げてきた記録が生々しく書かれているので、番組にはその背景がくっきりと描かれているように感じ大層印象に残った。

 

【「朱鷺の森日記」その他の資料を参照しつつ、大まかに経過を見ていく。

・終戦直後の混乱の中、日本政府は北朝鮮の日本人保護に積極的に動かなかった。朝鮮や台湾などから人々が引き揚げてくると仕事や住宅や食料が足りなくなると考えていた。(昭和20/8/24内務省文書)
 そのため政府は、当分は苦しみを耐え忍び現地共存するよう希望した。しかしそれが到底可能な状況ではなく、また北朝鮮脱出を試みてもソビエト軍に捕まれば収容された。

・チョン・ヒョンス教授(韓国慶北大学)がソビエトの引き揚げ事業に関する重要書類(ソ連の機密文書)を発見。調査の結果、終戦から北朝鮮内で毎日のように日本人餓死者が発生するなど、ソビエトは早くから日本人の状況悪化を把握していたことが初めて分かった。

 チョン・ヒョンス教授「この資料によると、終戦の年の9月に北朝鮮北部の町で288人の日本人が飢えによって死んだと報告されている。その後平壌の周辺地域で毎日のように餓死者が発生していることも把握していた。」
・「日本人の食糧をだれが負担するのか、船や内陸の鉄道輸送も必要 この費用をどちらが負担するかで米ソは決裂。終戦の翌年の早い時期に日本人の引き揚げの話し合いがなされたにもかかわらず決裂してしまった。ソ連は日本人の引き揚げが重要な問題であることを認識しながら、これを先送りしたことで死亡者が増えたことが浮かび上がった。」
・38度線南側の米検疫所では、北朝鮮を自力脱出してきた多数の日本人が膨大な数にのぼっていた。米軍は日本人の保護や輸送、持ち込まれる伝染病に頭を悩ませていた。
アメリカ軍からソ軍への書簡―「日本人難民の38度線通過への対応が是正されねばならない。」アメリカはソビエトに38度線をしっかり封鎖し日本人を押し留めるよう要請したのである。封鎖線の警備はさらに厳しくなった。これが日本人の北朝鮮脱出をさらに困難にした。ソ連による封鎖線の強化に対して、アメリカ軍は感謝の手紙をソ連軍に送っていた。
・ソビエトが北朝鮮からの日本人引き揚げに着手したのは昭和21年12月。しかし、ソビエトによる引き揚げで帰国した人は僅か8000人足らずだった。殆どの日本人が自力脱出したあとだった。敗戦直後北朝鮮に残された日本人は20万人以上。北朝鮮から脱出できず無念の死を遂げた日本人は約3万5千人であった。】

 

 番組のことを義母に伝えると、「みんな大変だったからねー、戦争とはそんなものだよ」とポツリと言ったことが残っている。
叔母はその番組を見ていて、かなりの衝撃を受けたといい、しみじみと語りだした。
 義母は出来る限りの荷をリュックサックに積み込み、当時2歳になった妻の姉を負ぶったのが叔母である。見つからないように命からがらの体験であり、赤ん坊が泣くと見つかってしまうので、また悲惨な状況も知っていたこと、道中半ばで亡くなる人もいて、「私にとってとても忘れることができない原体験だった」と仰っていた。