〇自らの背中を見つめる
能の世阿弥の言葉に、自分の姿を左右前後から、よくよく見なければならないという意の「離見の見」がある。自分の演じている姿を見る者たちのうちにおいて、よくよく見てみなければいけないという。実際には、眼は自分の眼をみることができないように、演じている自分の姿を自分で見ることはできない。
ではどうやって、自分を客観的に第三者的に見ればいいのか。世阿弥は、「目前心後」ということばを用いている。「眼は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」ということ、すなわち、自分を客観的に、外から見る心配りが大事だといっている。
さらに、歳を重ねれば重ねるほど、地位が上に行けば行くほど、前を見ることが要求され、自分の後姿を見ることを忘れてしまいがちになるという。
「後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず」(後姿を見ていないと、その見えない後姿に卑しさがでていることに気付かない)。(『花鏡』)
これは、単に演劇の世界に限ったことではなく、何事にも通じることではないだろうか。自分の主観で客観的に自分を見るのだから難しいと思うが。面白いなと思っている。
そのような難しい芸の話ではないが、それにつながるかもしれない生活の心得として興味ある見方がある。
・吉本隆明:「わたしたちはまえを向いて生きているんですが、幸福というのは、近い将来を見つめる視線にあるのではなく、どこか現在自分が生きていることをうしろから見ている視線のなかに、ふくまれるような気がするんです」({朝日新聞社『アエラ』2005・1・17号から}
『AERA』の特集「新しい幸せのかたち」に各界の人達が回答している。その中の吉本の言葉で、雑誌の特集で、「幸せになる秘訣があれば、お聞きしたいと思いまして……」と問われ、まず吉本は、「そんなものがあるなら、僕が聞きたいよ」と言ってから、こう述べた。ここ時点での吉本は、80歳になって足腰が弱って100歩も歩くことができず、本や新聞も拡大鏡を使わねば読めないといっている。
「現在自分が生きていることをうしろから見ている視線」とは、いったいどういう意味なのだろうかと、この発言に注目した福島智は次のように述べる。
・〔吉本さんは「思考の幽体離脱」とでも言うべき状況を想定して、そこに幸福が含まれるのではないかと言っているのです。これだけでもすごい発想です。
これに加えて、「現在自分が生きていること」を後ろから見るというのは、「時間的な後ろ」、つまり過去から今を見ている視線という意味も持っているでしょう。すなわちこの「思考の幽体離脱」は、自分の視線を空間的に後ろに移動させつつ、同時に時間的にも過去に視線を移動させるという二重性をおびていることになります。
「思考の幽体離脱」は、自分の視線を空間的に後ろに移動させつつ、同時に時間的にも過去に視線を移動させるという二重性をおびていることになります。
この考えをどう理解すればよいのでしょうか。さまざまな解釈が可能だと思います。
まず、空間的な視線の移動、つまり、後ろから見るとは、「自分の背中を見る」という意味でもあるでしょう。これは、顔は繕えるが、背中はごまかせないという意味かもしれません。また、自分の視点をいったん、例えば後ろ斜め上あたりに動かして、そこから自分自身を俯瞰的に、冷静に見つめるという意味かもしれません。
さらに言えば、本当に「前向き」であるためには、後ろから自分自身の背中を透かし見ることが必要で、したがってレントゲンのように、自分の腹の中も通り抜けて、そこから前を見通すという発想が重要だということかもしれません。
前のめりになって、気負って生きるのではない。「自分はこういう生き方でいいのか」「こういう歩み方でいいのか」と、冷静にやや突き放しながら自分自身を見つめる。そうした視線の中に、幸福が含まれるのではないかと彼は言っているのだと思います。
一方、時間的な視線の移動は、過去から現在を見るということです。現在から過去を振り返るのではありません。それとは視線方向が逆になります.そうすることで、現在の自分が形づくられるまでの経緯を、時間的因果律に注目しながら思い浮かべることができるのではないでしょうか。](『ぼくの命は言葉とともにある』、致知出版社より)
総じて現代社会は、未来のために前のめりに生きるような特徴がある。
「進歩、成長するのが良い」「役に立つのが良い」「できるのが良い」などと、「いまここに存在している足元をじっくり見ること」ことよりも、「明日に向かって夢を託す」ことに日々の活力の多くを費やしている人が多いのではないか。それは、より速く、より効率的、より合理的に、などと近代社会の推進力となってきた面もある。
このことは、「老い」のイメージを殊更マイナス的に見る風潮を作り出してきたともいえるのではと思う。
そういうことよりも、「どうして自分はこのように感じるのか」、「どうしてそのように考えるのか」、「いったい自分はどうしていきたいのか」さらに、「こういう生き方でいいのか」、「こういう歩み方でいいのか」と、立ち止まって、自分のものの見方を相対化し複眼的な視点から自分自身を見つめる。そうした自分のありようを探ることの方がはるかに大事ではないだろうか。
それはどこまでも自分のペースで時間をかけながら、自分自身を見つめながら見出していくのが基本であるが、読書などを通して別の角度から調べたり、人に相談したり対話を重ねたり、様々な研修機会に参加したりして、他の見方にも助けられながら見出していくのだろう。
そのことに着目して、様々な対話機会、研修機会やミーティングを模索、実践しているところもある。
知人たちが、様々な研修機会に参加し、いろいろ考えられたことがメールなどで伝わってくる。日々の暮らしをいったんおいて、じっくり調べる機会、仕組みがあり、ともに考えていける仲間がいることは、大きなことだと思っている。
一方、そのようなことに参加したり、世話役として随分関わったりしたこともあり、そのマイナス的なことも考える。
一人ひとりは決定的ともいえるほど異質であり、不完全な「私」にとって「他者」は理解できるような存在ではない。したがって、どこまでもそれぞれが主体となって、感じ、考え、生き方を見出していくことが肝要である。自分一人に立ち返って、調べ、探っていくことの連続の上に研修、対話などが成り立つと思っている。
だが、不完全であるから「他者」の理解を断念することも、不完全であることの自覚なしに「他者」を理解したつもりになることも違っているという認識で、「不完全で未熟なお互いであることを根底において」、お互いの「思い」を重ねていきたいと願うところに、変容していく対話が成り立つと思っている。
忌憚なくどこまでも対話のできる関係をもてることが「対話」のエッセンスと考える。ここには、メール、ブログやFacebookなどの対話交流も含まれる。
どちらにしても、日常の暮らしの中のひとりとして、自分自身の足元を見続けていくことが基盤となる。
わたしの心しているのは、いいと思うことも嫌だなと思うことも疑問符を添えておき、すぐに判断することを「ためらい」、あらゆることを疑いつつ優柔不断でいきたいと願っている。
また、自分自身に対してもほかの人に対しても、機が熟するのを「待つ」ことも大切にしていきたいと思っている。
なお、だいぶ前から日常的に、書いて表現することをはじめている。日頃漠然と思っていることを書くことで、ある程度自分の見方や感じ方を整理することができるとともに、書く楽しみを通して感受性や思考が鍛えられていくような気もしている。また自己内対話の要素もあり、自分自身を見つめる機会ともなっている。
▼福島智の詩から
・「指先の宇宙」
ぼくが光と音を失ったとき、
そこには言葉がなかった。
そして世界がなかった。
ぼくは闇と静寂の中でただ一人、
言葉をなくして座っていた。
ぼくの指にきみの指がふれたとき、
そこに言葉が生まれた。
言葉は光をはなちメロディを取り戻した。
ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき、
そこに新たな宇宙が生まれ、
ぼくは再び世界を発見した。
コミュニケーションはぼくの命。
ぼくの命はいつも言葉とともにある。
指先の宇宙で紡ぎ出された言葉とともに。