日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎高齢社会に思うこと(エリック・ホッファーの「人間の条件について」からの考察)

※改訂再録

〇病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。

 先日老年学会から「高齢者の定義を75歳以上に」という提言があった。老齢意識は人それぞれであり、目安として健康寿命があり、統計では男女いずれも70歳を超えている。

 一人ひとりの状態に合わせた見方、あるいはそれぞれの意識の持ち方で、ひとくくりにできないが、施策上70歳~75歳を一つの目安とするのは致しかたない気がする。
 ただし、個人レベルでどう見るのかはそれぞれに任せること、社会保障については今適用している枠組みに直接結びつけず、慎重に見ていく必要を感じる。

 また、老年学会が提言している就労意識には結び付けないでと思っている。個人意識にもよるが、ある程度の年齢になったら、好きなことをしながら暮らせるような社会を望むし、それが就労につながることもあるだろう

 私は福祉活動をしてきて、それなりに高齢社会のことに関心があったが、70歳近くになる現在、改めて自分の状態に腰を据えながら、高齢社会の課題に向き合っていきたいと思っている。

 

 この項では、病弱者や障害者、老齢者に対するユニークな見方をしている、エリック・ホッファーの『魂の錬金術』の「人間の条件について」の項目に照らして、私見を述べてみる。

「思いやり」37〈人間は「この世の弱きもの」として生まれたが、「力あるものを辱めるため」に進化した。そして人間という種においては、弱者は往々にして生き残るだけでなく、強者に打ち勝つための能力と装置を開発している。実際、人類の驚異は、弱者の生き残りに由来する。病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。部族の男たちが戦いに出ている間、背後にとどまらざるを得なかった不具の戦士こそ、最初の語り部であり、教師であり、職人であった。老齢者と障害者は、治療と料理の技術の開発にあたった。尊い賢人、発狂した呪医、の預言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小などが、そうした人々である。〉

 

 1902年生まれのエリック・ホッファーは7歳の時に母と死別、同年失明するが15歳の時に回復、その後、正規の学校教育を受けることがなく、季節労働者、港湾労働者としての厳しい生活の中から独自の思索を深めていく。
 上記の言葉は、随分強引なところもある人類史へのアフォリズム(評言)だと思うが、ホッファーの著作に一貫して流れている独自の観察力と洞察力からの、ある一面面白い見方だなと感じた。

 この著作は、「情熱的な精神状態」「人間の条件について」の二つの大きな論考から構成してあり、印象に残る評言が数多あり、ものごとの正・負両面から見ているので、一つの項目だけではわかりにくい面もあるが、まず、「病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。」の文章に絞ってみていく。

 

 福祉分野の根幹をなす理念に「ノーマライゼーション」がある。
 ノーマライゼーションとは,障害者(広くは社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の普通(ノーマル)の生活・権利などが保障されるように環境整備を目指す理念で、逆にいえば,このような考え方が出る背景には,障害者を取り巻く環境は,普通ではなかった(アブノーマル)ということになる。(※「普通」というとらえ方は曖昧で曲者ではあるが)

 また、福祉に携わるひとによく取り上げられる著名な言葉に、「この子らを世の光に」がある。
 知的障害者福祉の父と言われている糸賀一雄の、〈この子らを世の光にとてささげける いのちのかぎり春をまちつつ〉からの悲願ともみえる思想だ。

「福祉に力を入れるのは依存体質から人間をだめにする」という発言が公然となされている一方、多くの人は福祉のあり方、可能性の関心はかなりあるとは思う。

 だが総じて、「普通の生活ができるように援助する」「ひとりの尊厳ある人として見ていく」「ハンデキャップを抱えた人としてケアしていく」など、支援を必要している人へのほどこし的な色合いが濃い〈客体〉的な見方、対象者とする見方が多いのではないだろうか。

 もちろん、この観点は大事なことではあるが、〈強者〉とされている人たちによる社会保障関連の施策や方式が決められていくことが多い現状である。

 それに対してホッファーの言葉は、弱者とされる人たちも、文化や文明を担ってきた〈主体〉ではないだろうかと、通常とは逆転した見方であり、その見方に至る観察、実証と思索を踏まえたものである。
 そのような面もあるのではないかと思い、このような角度から見るのも大事ではないかと考える。

 

 疑問あるいは留意点として思ったことをあげる。
「力あるものを辱めるため」「強者に打ち勝つため」というのは、弱者の集団化から組織化した場合の陥りやすい論理である。一旦、組織の力が強大になり権力的になると、反面して始末の悪い様相を顕すことが多い。

 どうであれ、「力あるものを辱めるため」というような視点は結局弊害をもたらすことになるのではないか。

 障害者や老齢者の個人レベルでは、上記のような論理ではなく、自分らしく自由に生き生きと暮らしたいとの思い、願いが強いだけである。

 障害者の運動史を見ると、集団として機能することで影響をもたらしたことは多々あるが、ホッファーのいう人間は〈未完〉であるという自覚が強いのか、整然と秩序ある組織化にはなじまず、紆余曲折しながらの重なり合いによる色合いが濃いものになっていくことが多いような気がしている。

 また、障害者運動では当事者の個々の声、それに携わる人たちの取り組みで、相当な影響を及ぼしてきた面があるが、老齢者からの声は、ほとんど取り上げられていない現状である。

 

 ホッファーの評言に魅力を覚えるのは、私は未だかってない超高齢社会の当事者にならんとしている。私を含めた当事者、〈弱者〉のあり様の蓄積が、次なる社会に影響を及ぼすのではないだろうかと思うからだ。

 生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、進歩や効率や出来ることに価値をおく前のめりの気風などが色濃い現社会を変えていけるのは、厳しい生産現場に直面している人よりも、そこにある程度の距離をおいた、数々の経験、失敗の豊富な老齢者たちのあり方が大きな役割を担うのではないかと考えている。

 鶴見俊輔の岡部伊都子との対談『まごころ』の最後の部分に、次の発言がある。
〈鶴見:若さからの解放が、そうとう楽しいことなんですよ。—-それは若い人にはわからないね。年をとっているのは、みんなみじめで、若くなりたいと思ってると、それが若い人の錯覚なんだよ。〉

 このような心境にはまだまだな私であるが、弱者感覚というよりも、「年をとるのは面白いな、いいものだな」と思えるような生き方をしていきたいと思っている。

 

【参照資料】
※ホッファー「人間の条件について」第一章に絞って、いくつか挙げてみる。
・「未完の動物」1〈自然は完全なものだが、人間は決して完全ではない。完全なアリ、完全なハチは存在するが、人間は永遠に未完のままである。人間は未完の動物であるのみならず、未完の人間でもある。他の生き物と人間を分かつもの、それはこの救いがたい不完全さにほかならない。人間は自らを完全さへと高めようとして、創造者となる。そして、この救いがたい不完全さゆえに、永遠に未完の存在として、学びつづけ成長していくことができる。〉

・2〈完全さには、どこか非人間的なところがある。熟練者の仕事は、われわれの目には本能的かつ機械的なものに映る。技術の習得にかける努力はこの上なく人間的なものだが、技術の完全な習得は非人間的なものへの接近である。これはひとつの逆説である。人間を完成させたものにしようとする者たちは、結局、人間を非人間的なものに変えてしまう。〉

・3〈人間の創造性の源泉は、その不完全さにある。人間は、自らの欠陥を補うために創造力を発揮する。人間は、特殊器官の欠如からホモ・ファーベル(武器や道具の製作者〉に、生来の技術のなさからホモ・ルーデンス(演奏家、職人、芸術家)になり、動物がコミュニケーションの手段としているテレパシー能力のなさを補うために言葉を話すようになった。そして、本能の不十分さを補おうとして思索者になったのだ。)

・「遊び」27〈—-アルタミラ洞窟の天井に比類のない動物壁画を描いた旧石器時代の狩猟民たちは、粗末な道具しかもっていなかった。芸術は実用品の製作よりも古く、遊びは労働よりも古い。人間は必要に迫られてしたことよりも、遊びでしたことによって形作られてきたのだ。人間の独自性と創造性の源泉は、その子どもじみたところに隠されているのであり、遊び場はその能力と才能を開花させる最適な環境なのである。〉

・「学ぶこと」32〈教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身に付けさせることにある。学んだ人間ではなく、学び続ける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは祖父母も父母も、子供たちもみな学生である。激烈な変化の時代において未来の後継者となりうるのは、学び続ける人間である。学ぶことを止めた人間には、過去の世界に生き術しか残されていない。〉

・「思いやり」36〈人間のほとんどすべての高貴な属性(勇気、名誉、愛情、希望、信仰、義務、忠誠など)は、魂の錬金術によって無慈悲さへと変えられうる。そのなかにあって、思いやりだけが、われわれの内面で生じる善と悪との不断の往来から距離を置いている。思いやりは魂の抗毒素である。思いやりがあるところでは、最も有害な衝動でさえ相対的に無害のままでいられる。—-〉

・37〈人間に対する限りない、すべてを包みこむ思いやりをもってしても、巨大で激烈な変化の時代の明らかに解決不能な問題に対処することは、できないのでなかろうか。これまでのところ、社会が再出発をはかると、そこにはつねに悪魔がひそんでいた。〉