日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「老い」のかたちをつくる(1)(2)

〇そういう自分でいいではないか
 急な下り階段、坂道になると、とても緊張する私がいる。何かの加減で、ずっこけたことが数度あり、緊張の度合いが足腰の衰えとともにひどくなってきた。
 病院のリハビリなどに携わってきた娘の知人に見てもらったら、年齢相当の衰えはあるが、怖いという観念がおおいに邪魔をしていると言われた。

 階段を降りる際に、すぐ手すりにつかまれるように身体が傾いているそうである。もともと平衡感覚が弱く、姿勢が曲がっていることの自覚があり、納得がいく指摘だった。

 恐がらずに、まっすぐ降りたらいいというアドバイスはもっともだと思う。しかし、少しずつ改善はしていると思われるが、身体はこわばっているのを感じる。

 

 自分が歳をとってきたなーと思い始めたのは、身体の変調からである。丁度60歳になろうとした時期である。その頃、重度心身障害者の24時間介助グループの一員で、トイレや入浴介助では担ぎ上げたりして、ある程度体力はあると思っていたが、段差などのあるところでバランスを崩し転ぶことがあり、これはまずいなと思ったりした。

 まもなく60歳の定年(便宜上のもの)を迎え、一応区切りにして、90歳を超えた妻の両親と暮らすべくI市に移住した。その後しばらくは気にならなくなっていたが、徐々に足腰に続き、耳の聞こえ、滑舌が悪くなり、そうなると、人と話を交わしたり電話に出たりするのが億劫になり、あまり話をしなくなり、それは負の悪循環となって益々ひどくなっていき。結構きつかった。しばらく福祉活動をしてきて、そんなことは慣れているはずなのに。

「この程度ならまだ出来るはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「出来なくなっている現実の自分」にはギャップがある。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 しかも、こんな自分を見せたくない、変な風に見られるのではないか、というような意識が少しでもあると、どんどん悪い方へ、より老齢化につき進んでいくようになっていく。

 

 そんなとき、妻に「あんなに凄まじく仕事をやっていたら、後で必ず影響がでてきて老化が早く来ると、Fさんが言っていた」といわれ、そうだよなと納得するものがあった。

 そのときはそんなに思わなかったが、このようなことも大きかった気がしている。それと楽観的な性格もあり、実際どうだったのかとか、相関関係は分からないが、ある種のあきらめがつき、大げさに言えば自尊心が保たれたのではないだろうか。

 老齢に限らず、人が自分自身に対して負の感情におちいっているときに、如何に自尊心を維持するかが一つのポイントになる。
「あきらめる」というのは「明らかに見る」ことではないかと、土居健郎が言っていたようだが、「ありのままの自分を、それなりに肯定すること」。これは大事である。
 今は、そういう自分でいいではないかと考え、人前に出て話をすることも平気になってきている。赤塚不二夫の「バカボン」で決め台詞的に使われていた「これでいのだ」である。

 

 今回は自分の例で書いてみたが、福祉関連の活動をしてきて、現社会では、ことさら「老い」をマイナスイメージにしているような気分、見方が根強くあるように思う。

 平均寿命がのび、いまだかって経験したことのない超高齢化社会の中で、しかも老齢は人としての自然現象である。若さや生産性に価値があり、老齢に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていき最後は無価値となる貧しい人生となる。

「老い」のかたち、とらえかたについて様々な角度から、焦点をあてていきたいと考えている。

 

【参照資料】
※これは50代後半にあるところに発表したものである。社会福祉士になりたてで、ごつごつした感じはあるが、全体の主旨は今もそれほど変わっていない。
〇高齢化社会を迎えて
 人間の高齢期における特質として、心身機能の低下、社会的地位・役割の変化、配偶者や同世代の兄弟や友人の死による喪失体験、定年退職による経済的不安などがあり、これらが複合的に生起する。一方、社会的な役割・仕事から解放され、自由な時間を持ち、新たな生きがいや可能性を見出し、より有意義に暮らしていける時期でもある。そのための社会として、老人福祉、医療関連各施策の総合的・計画的な展開、生涯学習、健康教室など文化・教育的機能などの充実をはかっていくと思われる。
 それらの機能を展開するためにも、高齢社会、老年期の意味づけと的確な評価が欠かすことができない。近代的な考え方の特徴は、生産的、効率的、進歩的なあり方をキーワードとする壮年期の立場から物事をとらえることである。この視点からは、「老い」を老いの問題ととらえ、社会問題、対策の対象ととらえる傾向が一般的であった。英語のI am peakedの気分を上野千鶴子は「私の人生は下り坂である」と表現した。(註1)
 これに対し、老人を社会のおこなう対策の客体としてだけでなく、社会の中で生きる生活の主体としてとらえる視点がある。鶴見俊輔は「若さからの解放が、そうとう楽しいことなんですよ。それは若い人にはわからないね。年をとってるのは、みんなみじめで、若くなりたいと思ってると、それが若い人の錯覚なんだよ」(註2)と述べている。伊東眞理子は人生を準備期、活動期、完生期の3段階に分け、高齢期とは人間は死ぬまで成長する存在であることを自覚しつつ死を迎える時期であり、「死」に至るまで上昇曲線にあり、それを「完生期」と位置付けた。(註3)
 その完成期に最も大切にしたいことは、次の人生と向き合うために充分な時間をとり、自分の人生を振り返りながら、「自分を知る」「人生や社会を考える」「死と向き合う」ために自己をじっくりと調べる機会を作っておきたい。このような観点は、「老い」の積極的な意義を認識させるものである。高齢期に入り、より一層、人が尊厳を持ってその人らしく生き、死んでいける社会は全ての人の念うところであり、いかに死ぬかはいかに生きるかを考える「死生学」も含め、ここに成熟した高齢社会の本質を考える大きな要点があると考える。
『参照』
註1上野千鶴子『老いる準備』学陽書房、2005年p3-7
註2『まごころ』鶴見俊輔・岡部伊都子対話、藤原書店2005年
註3伊藤眞理子著『楽しく学ぶ高齢者福祉』ミネルヴァ書房、1995年p184-189

 

◎「老い」のかたちをつくる(2) 

〇感情、思考は、ある方向に人を誘っていく。
 ある知人は、「年とったなあー」「衰えてきたなー」「物忘れがひどくなってきたなー」などよく口に出して言っていると、脳のほうもそれに合わせるような働きが強くなり、より一層そのような状態に身体もなっていきやすくなるので、言わないほうがいいといっていた。

 人の感情(心)と思考(脳)と身体(行動)は密接につながっているので、私もそういうこともあるだろうと思っている。
何気なく出てくることばにいちいち拘るのはほどほどにしたいが、このようなことが口癖になっていると、身体、脳、感情にも影響が出てくるのは当然のような気がする。また、このようなことばを相手に向かって繰り返すと、酷く傷つけることになる恐れがある。

 個人の場合はともかく集団的な現象になると、お粗末なことになることもよくある。例えば、奇妙であれ、あるいは高邁な理想を掲げていようと、組織にべったり入りこむと、思考、感情、行動も組織のそれになっていくことが多いし、ヘイトスピーチを声高にしていると、身体も態度もそのようになっていく。戦時中、鬼畜米英のことばが横行すると、自由主義者、民主主義者を問わず、多くの人の思考や感情もそうなっていった経緯もある。

「老い」についての様々な言説、知識、事件などに触れて、無意識的に、現社会での見方、その多くのマイナスイメージを植え付けるようなものによって、私(たち)の見方や気分が強く影響されているのでないかと思っている。

 一方、考えさせてくれるようなことやものに出会い。自分の捉え方を見直したり、調べたりしたくなるような機会も少なからずあり、自分の何かが活性化しはじめる。だが、今までの自分の見方を深く見直しするときに、ある種の戸惑いを生じることもある。

 

 社会心理学用語で認知的不協和理論がある。
【知識の矛盾状態における行動の傾向について、フェスティンガーが展開した理論。 信念・意見・態度などを含む我々の知識を<認知要素>と呼ぶ。自分の中にあった<認知要素>と、新たに与えられた<認知要素>の情報が矛盾する状態が<認知的不協和>である。人はこの状態を不快に感じ、この矛盾を解消しようとする。このとき、自分にとって変えやすいどちらか一方の<認知要素>の内容を変えることで、協和した状態へ導こうとする傾向がある。(ナビゲート ビジネス基本用語集の解説より)】

 

 これは、自分の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語だが、認知の矛盾に限らず、感情、行動を含めた心身が乖離した状態の落ち着かない気分から何とかのがれようとするのは、普通の人のあり様ではないかと思う。

 人(脳)は直面していること、目の前で展開されていることを、現時点での自分のもっている見方や感情など〈身についた思い込み〉で解釈し、簡単にやり過ごすことも多いだろう。

 これには、次々に入ってくる情報を、いちいちつぶさに考えることや戸惑いを少なくして、迅速に処理することで日常生活がスムーズにいくというメリットがある。
 一方、簡単にやり過ごすことで、日常の何気ないことに潜んでいる不思議さへの発見に乏しく、揺さぶられることの面白さを知らないままマンネリ化した暮らしを続けることにもなる。また、一旦身についた見方、先入観からなかなか逃れられないデメリットがある。

 そこで、自分の捉え方を見直したり、調べたりしたくなるようなことにまつわる戸惑いの対処の仕方にいくつかのやり方があるように思っている。

 

 直面している事態に戸惑いながらも、結局今まで身につけた見方、感情に引き付けてとらえていくこと。これは比較的多いような気がする。
 次に、簡単に今まで見方を改めて、新たな見方を取り入れていくこと。これは安易な場合もある。鬼畜米英が短期間の間に親米英や民主主義者になっていくように。じっくり調べることなく奇妙な組織に加わり、後で後悔するようなこともある。
 もう一つは、簡単に結論つけずに、矛盾を抱えたままあるいは留保しながら、いろいろな角度から探り続けること。これは思考の耐性がいる結構難しいことと思っている。なにせ、整合性を求めていくことは、普通人にとってよりよく生きていくための無理がない方式だと思うので。

 

 あまりにも大雑把な推論を言えば、これから育っていく子どもを抱えていたり、生産的な職種についている年齢の人は、各種のしがらみを抱えていて、どうしても極端な変化を好まない固定的、体系的な見方をしがちである。勿論そうでない人もいるが。

 それに対して、数々のしがらみから解放された元気な老齢の人は、脱構築的な直観力が際立ってきて、その経験が生かされてくることもあるだろう。これは希望的観方であるが。
だが、老人にとって、大きな病気や衰弱は必然的に生じてくるので、このことをみていくことは重要であり、稿を改めて考えていく。

 精神科医の中井久夫は、若いときのよさはサラダであり、老人の味わいは漬物である。(「世に棲む老い人」)と書いているが、糠味噌臭いものもあるにしても、味わいのバラエティに富んでいる特徴があり、そいうよさを引きだしていきたいと考えている。

 

【参照資料】
※生老病死について考えるときに、自分の中を整理する支えとなる人に中井久夫氏がいる。今回は老いと病気について触れなかったこともあり、「世に棲む老い人」から抜粋する。

〇おそらく、新しい問題は、一般人口の相当部分が老年に達する「一般的長寿」の時代ということの中にある。この時代にあっては、老人の身体のしたたかさは減少する傾向にあるだろう。淘汰圧を形づくっているさまざまな障害因子の消滅や軽減、要するに淘汰圧の減少が一般的長寿をもたらしたのであるから、これは論理的帰結である。実際にも、老化ということ自体はさほどの問題でなく、病気をもたない老人は予想をこえてかくしゃくとしている。多くの生理能力が二、三割減少するということは、よく考えてみれば多くは青年でも個人差の範囲に入り、相対的な問題であって、大問題ではないわけだ。裏を返せば、老人問題は、一般的長寿化の時代にあっては、その病気にある。つまり、老人の問題は有病率の高さであるということになる。(中略)

 老いて失明し、道を横断するにも人の手を借りずにはすまなかった最晩年のサルトルは、「老いとは他者である」といったそうである。(鈴木道彦『異郷の季節』)。この、周辺からの他者化、あるいは思いがけない部分の他者化は、相当部分が、有病率の高さを介しての老いに見られるものである。サルトルはその例に入るだろう。「他者化」とはいろいろな意味にとれることばだが、さしあたり、不如意性ということである。そして、自分の一部であったと観念していたものが他に委譲されるということである。この他者化に抗することが課題であり、かなり成功することもある。老眼鏡や入れ歯を自分の一部にしてしまう心理的作業である。この作業は相当な大仕事である。
(『「つながり」の精神病理 』中井久夫コレクション2、ちくま学芸文庫、2011より)