日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎重松清『赤ヘル1975』と戦争・原爆の語り継ぎ

〇重松清『赤ヘル1975』を読む
 大のカープファンで、リーグ優勝が現実のものになりはじめてからソワソワする日が続いて、優勝が決まって取りあえずホットしている。

 小学生の頃、父に連れられて試合をみに後楽園、駒沢、神宮などによく行っていた。父は今のロッテの前身である毎日オリオンズを贔屓にしていて、その流れでオリオンズファンになり、その頃のミサイル打線の主砲山内和弘がとりわけ好きであった。

 あるときの試合後、父におねだりしてなんとかオリオンズの控室に行き、山内選手にサインを貰い握手を交わし外国製のガムをいただいた。それ以来山内選手のことは絶えず気になっていた。

 年齢あるいは顔面に死球をくらい眼が悪くなったこともあるのか、往時の頃の働きはできなくなり、トレードで阪神さらに広島に行きそこで選手生命はおわりとなる。カープに行ったのは1968年、私が20歳のときで、それ以来50年近く広島カープを贔屓にしている。

 ※山内一弘(和弘):1968年、根本陸夫に請われ広島東洋カープに移籍。同年は全試合出場を果たして王貞治、長嶋茂雄に次ぐリーグ3位の打率.313を放って自らの存在感を示し、通算10回目となるベストナインを受賞。山本一義、衣笠祥雄、山本浩司(浩二)、水谷実雄、三村敏之、井上弘昭、水沼四郎ら数多くの選手の生きた教材として活躍した。チームを活性化させ、広島は球団史上初の3位となった。(ウィキペディアより)

 

 今年のリーグ優勝が近づくにつれ、気にかかっていた重松清『赤ヘル1975』(講談社、2013)を読んだ。
 物語は、戦時下で集中砲火を浴び、原爆が投下され、街が燃え尽きてから30年、弱小球団広島カープができてから26年、カープの帽子が濃紺から赤にかわり「赤ヘル軍団」となったころ、一人の中学生が広島に転校してくることから展開しはじめる。

 その転校先の中学校生たちの交友を横軸に、戦時下にこうむった後遺症に苦しむ街の一人ひとりの生きざまを縦軸に、1975年の球団創設以来の初優勝を遂げたシリーズの経過を織り込みながら展開していく。
「悲しみが、苦しみが、怒りが、そして希望が―-この年真っ赤な奇跡へとつながった。」と著書の帯にあるが、ぐいぐいとこころに迫ってくる小説だ。

 物語のプロローグは、父親を原爆の後遺症でなくし、店の手伝いをしながら母と姉とを男として支えていくんだと思っているヤスが中学生になるので、床屋で坊主頭になるところからはじまる。

 数ページ後に、「いまもまだ、原爆で負った傷に苦しめられているひとは数多い。目に見える傷もあれば、見えない傷もある。⋯—母ちゃんは言う。『みんな言わんだけなんよ。ほいで、言わんことは、ないこととおんなじなんよ—-』と悔しそうにつぶやくこともある。

 ヤスと同じ中学に、ねずみ講まがいの商いに失敗し続けて、引っ越しを繰り返している父親につれられてマナブが転校してくる。母は離婚していない。さらに、スポーツ新聞記者を目指しているユキオとの交友が織りなす微笑ましいエピソードが続いていく。

 マナブは、「よそモン」として新しい土地で無難に生きるため、いつしか「観察の達人」となっていた。マナブの目に映る広島は、他の街とは明らかに何かが違った。そこには、原爆被害の陰と広島カープへの熱狂がいつもからみあうようにあった。

 

 やがて仲良くなったヤスとユキオや、クラスメートの面々からは一人浮いていると思われていて、戦時下の空襲で家族のほとんどを失った真理子に何かしら惹かれるものがあり、やがて交流をすることになる。

 マナブは近所に暮らす人々を通して、戦争が、原爆が及ぼした惨たらしい実態、同級生の多くが原爆や戦時下の後遺症で家族を失っている現実を知り、より一層ヒロシマの関心を抱き、学んでいくようになる。

「原爆の絵」をめぐる、ちぎり絵にまつわる話の展開の中で、何かとマナブを気にかけてくれた横山のおばあちゃん菊江さんが心臓の悪化により入院する。旦那は戦死、子ども達は三度の空襲にあい、さらに戦後すぐに栄養失調で次々となくなった。その後、原爆で負傷している庄三さんと再婚した。

 庄三さんはそれまで手掛けようとして全く進まなかった「原爆の絵」作成を、是非菊江さんに見てもらいたいとの一心で、ちぎり絵でつくり始める。それを裏方として支えるマナブと真理子との交流に、身につまされながら読んでいった。

※「原爆の絵」:被爆者の手による原爆被災の体験を描いた絵. 1974年と1975年、NHKが「市民が描いた原爆の絵」を募集した際に、2000以上集まった。「市民が描いた原爆の絵」として広島平和記念資料館・平和データーベースで検索することができる。

 

 つくりものめいた話もあると思うが、さほど気にならず、重松清の物語の構成力、中学生や戦争の影を抱えた一人ひとりの人物の描き方、家族の背景描写などに巧みなものを覚え著者の力量を感じた。

 一方、1975年はカープが初優勝した年でもあった。
「『明日こそ』いうんは今日負けたモンにしか言えん台詞じゃけえ、カープは、セ・リーグのどこのチームよりもたくさん『明日こそ』をファンに言うてもろうとるんよ……なーんての」と照れくさそう笑ってユキオが言うように、前年も含め最下位の常連だった弱小貧乏チームの優勝は奇跡とさえいわれたが、広島の人々は、時に暴動をおこすほどチームを愛し続けていた。

 マナブはカープの優勝がきまり、熱狂的に包まれた優勝パレードの日、事業に失敗し誘いをかけた何人かの人に疎まれていた父とともにひそかに街を離れた。その後、マナブから便りが一度届いたが、返信をしても行き先不明であった。

 

 丁度この頃、『カルトの村で生まれました』を読んだり、いろいろな人と話をすることを通して、子どもの育ちやわたしが関わった中・高校生年代の子どものことを思うことが続いていて、そのことも影響したのか、中学生一人ひとりと街の一人ひとりとの交流に何度もグショグショになりながら読みすすめていた。

 また、辺見庸『1★9★3★7』をはじめ、私が生まれる直前の社会情況を調べたり知ったり、知人から随時送られてくる『わくらばの記』を読むことを通して、自分の知っていると思っていることを、問い続ける、語る、語り継ぐということに関心を抱いていた。

 この著作を読んで、ひととして忘れてはならない、覚えていなければならないことが、随所にさりげなく語られているように思えて、結果としてこのような語り継ぎもあるのだなと、作家重松清の力量もあると思うが文芸作品のもつ力を、改めて感じている。

 

【参照資料】
※書評:ヒロシマに咲いた希望 赤ヘル1975 重松清さん28日出版。(中国新聞、ヒロシマ平和メディアセンター社説11・25)より転載。

「自らも転校生」:自らも少年時代に転校を繰り返した重松さん。74年に山口に転校し、75年はマナブと同じ中1だった。「もし、自分が広島に転校していたら、どんな感じで赤ヘルの優勝を見たり、広島の原爆と向き合ったりしたんだろう」。そんな思いも巡らせた。

「転校のベテラン」のマナブは、級友たちとなじもうと、ヒロシマを必死に知ろうとする。被爆した祖母と、当時少年だった父親を後遺症で失ったヤスは、そんなマナブを「よそモン」と言い切る。

 2人は時にぶつかりながら、家族以上にお互いを大切に思えるほど友情を深めていく。その姿を広島弁でも言う「連れ」と表現した。「おそらく、今の中1の友達関係とは違うと思う。でも、『あー、いいな』と思えるはず」と力を込める。

 広島にとってカープの初優勝は、スポーツにとどまらない意味を持つ。「今以上に、東京に対するコンプレックスがあったはず」。前年まで3年連続最下位の弱小球団が、巨人の目の前で優勝を決める。被爆30年で、ようやく東京と並び「わしらもやれる」と、市民に希望をもたらした。

 物語は、月刊文芸誌「小説現代」(講談社)で、2011年8月号から13年7月号までの連載を大幅に書き直し、単行本化した。

「街に溶け込む」:執筆に際して、新聞記事や写真を集め、当時を知る人を訪ねて話を聞いた。カープが、広島の街やそこで暮らす人たちの日常に溶け込んでいる、その近さを感じたという。

 連載を始めようとしていた頃、東日本大震災が起きた。被災地で、がれきの山を目の当たりにし、被災者の悲しみや苦しみにも接した。「(カープの初優勝は)原爆で廃虚になった街から30年後に咲いた希望の花。そうしたニュアンスは濃くなった」と語る。

 75年は戦争の傷痕の生々しさがなお残っていた。ベトナム戦争が終結し、広島では新幹線が開通した年でもあった。「自分が、その世代の一人だったのは、小説を書いたり、ものを考えたりする時にやっぱり残っている」。広島にとっても自身にとっても、大きな節目と振り返る。(2013年11月23日朝刊掲載))