日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎石原吉郎に関する各種論考から

〇「私は告発しない、ただ自分の〈位置〉に立つ。」
 最近、ある関心から石原吉郎関連の本を読むことが多い。その中で、石原の信念ともいえる「〈告発の姿勢〉や〈被害者意識〉からの離脱、断念」に、思うことがある。

 折々、私は実顕地のことについて書いてきたが、そこに対して嫌な感情はない。実顕地とその運動には共同体(コミューン)についての考えていきたい、よくも悪くも様々な面がある。そこに着目する研究者などもいる。

 そこで暮らした元参画者や元学園生の中に、懐かしさや親しみを感じている人にも出会い、一度離れた元学園生や参画者が、家族ごと再度参画しているケースもある。私自身戻ろうとは全く思えないが、そこに暮らしている知人や、熱心に支持している会員さんとは交流している。

 それでも、『カルトの村で生まれました』や様々な人との体験を聞くなどで、その頃(2000年)の実顕地のことについて、集団の中での個人のあり方、その頃の自分のあり方をふりかえる必要、責任のようなものを覚えて書き進めている。

 その時に、責任主体として自分をみていくことはしていくつもりだが、告発や加害者・被害者の図式には陥らないような思いが強くある。石原の著作だけではなく、どんなことにもそれを感じていて、そのような色合いが強いものには抵抗を感じている。

 

 無名のときから終始温かく見守り続けた鮎川信夫は石原との対談で次の発言をしている。
「私流の石原さんの告発せずという思想の受け取り方は—-「告発せず」という形をとった告発—-少なくとも、ふつうの告発よりは一段上の告発であるととるわけですね。」(「断念の思想と往還の思想」)

 事実ときちんと向き合いとりあげることで、結果として告発になっていくようなことはあるだろうと思っている。

 私が読んだ限りでは、石原吉郎のことば「私は告発しない、ただ自分の〈位置〉に立つ。」(「一九六三年以後のノートから)に様々な観点から言及している人が多い。

 石原の詩、エッセイに着目し、親しみや愛惜を覚えている人でも、そのことばについて、批判する人、戸惑う人、共感を覚える人など様々で、当然だが、捉え方は人によって極端に違ってくるのだと面白さを感じている。

 今後の覚書として、読んでいろいろ考えさせてくれた著書のいくつかを記録してみる。

 

 まず、石原吉郎の「告発しない」に言及している箇所を取りあげる。
・「告発しない」という姿勢について
「告発しないという決意によって、詩に近づいたということですが、これも、今いった詩を選んだ動機に、ある意味ではつながると思います。八年の間見てきたもの、感じとったものを要約して私が得たものは、政治というものに対する徹底的な不信です。政治には非常に関心がありますけれども、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。人間は告発することによって、自分の立場を最終的に救うことはできないというのが私の一貫した考え方です。人間が単独者として真剣に自立するためには告発しないという決意をもたなければならないと私は思っています。」(「沈黙するための言葉」『望郷と海』所収より)

 

・「大量殺戮のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。 そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったくおなじ次元で犯しているのである。 戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり、 私たちの問題はついに拡散をまぬかれない。」(「失語と沈黙のあいだ」『海を流れる河』所収より)

 

・畑谷 史代『シベリア抑留とは何だったのか――詩人・石原吉郎のみちのり』から。
苛酷な強制収容所を生き延びた詩人・石原吉郎を軸に抑留者たちの戦後を丹念に追った著作で、シベリア抑留の実態と体験が彼らに与えたものを描き出し、人間の本性、生きる意味について考えさせられる一冊となっている。

 この著書で、石原の「告発しない」に対するいろいろな見解が簡潔にまとめている。
「“告発しないのは”、“告発できなかった”からではないか。生き残った自分は“加害者”だという意識が、石原にはあったと思う」(富田章生)

「ラーゲリでの体験から、石原はわかっていた。権力と対抗する運動のなかでも、あるいは、たとえ一対一の関係であっても、人間は、本質的に抱えている暴力性や権力性、非人間的なものから、逃れられないのだと」(小林孝吉)

「石原さんは国家とか社会とか、共同のものに対する防御が何もない。—-個人的なものに対して共同的なものっていいましょうか—-そこは考えてもいいはずじゃないかと」(吉本隆明『磁場』鮎川信夫との対談)」

 この著は信濃毎日新聞に掲載されたものをまとめたもので、関係者への聞きとりと各種文献の丹念な傍証で、平易な文章で多角的に描いていて、とても優れた著書だと思う。是非若い人たちに薦めたい本である。(畑谷 史代『シベリア抑留とは何だったのか――詩人・石原吉郎のみちのり』岩波ジュニア新書、2009)

 

・細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』から。
ドイツ思想研究家で詩人でもある細見和之の著作で、石原の詩とエッセイを切り離して、距離を置いてみていく視点でつらねかれている。石原の自編年譜を核としながら、自編ゆえの偏向を注意深く指摘しつつ、他の文献の豊富な傍証により石原の歩みと文学上の成果が複眼的に豊かに描出されている。

「告発しない意志をめぐって」で、幾多の傍証をふまえて、次のように錯誤が含まれているとしている。
『告発しない』と語ることは、自分に告発する権利が常に留保されていることを前提にしている。結局のところ石原は、一貫して自分をいつでも告発の立場に立ちうる被害者という位置に置いていることになる。」

 石原のシベリア・エッセイにみられる、簡潔鋭利な評言調のテキスト、短絡的な断定を加える傾向に対して、それが書き継がれた(全共闘運動が盛んな)時代的な脈絡とは無縁ではなかったのではないかとし、全共闘的なある種悲壮な非日常的感覚が、石原の黙想的な論理と強く呼応する面があったのではないかとしている。私も石原のシベリア・エッセイに、このような面があると思っている。

 この著は石原吉郎のエッセイを見ていくときに、また詩に対する疎い私にも、参考になる視点が多々あると思っている。(細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論社、2015)

 

・辺見庸『瓦礫の中から言葉を』から
 この著作は、宮城県石巻で生まれ育った辺見庸が、2011年4月にNHK教育「こころの時代」で発表した東日本大震災についての内容をベースに、大幅に加筆したという。

 筆者の友人、知人の多くも被災したが、筆者自身、脳出血の後遺症で右半身が動かず、すぐには被災地に駆けつけることができない。だが、今回の出来事を深く感じ取り、考えぬき、予感し、ひとりひとりの沈黙にとどけるべき言葉とはなにか、その本質に迫っていこうと、今の段階のものとして書き連ねたという。

 石原に好感をもち、度々自分に引き付けて取り上げている辺見庸は、この書の中で随所に石原に触れている。先日(7月12日)のブログで取りあげた「アイヒマンの告発」を引用し、それに対して「詩人への疑問」のなかで次のように語っている。

 

※(引用文)「私は、広島告発の背後に、『一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに』という発想があることに、強い反撥と危惧をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実へ近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて脱け出したことにおいてではなかったのか。『一人や二人』のその一人こそが広島の原点である.(中略)広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とはっきり無縁である。」(「アイヒマンの告発」)

「わたしは石原の声につよく惹かれつつ、その声にあらがってもいます。それはまず、シベリア抑留経験の苛烈と帰国後の絶望が、詩人のロジックをなにがなし短絡させ、しかも短絡していると安易に言わせない当事者(被害者)の重みを感じさせてやまないからです。」

「計量的発想と死の類化」にはたしかにつよく告発すべきだが、たった一人の生と死を越えるのではなく、それをとおしてあらゆる死者に向かってはいけないのか──」
「過去および現在の死者から、未来の死者の悲惨まで先どりする試みは、不遜どころか、いますべきことではないかとも思います。告発しないのではなく、自分の〈位置〉に立って自他を告発することこそが、『私』という単独者を責任ある主体にする契機になるのではないでしょうか。

 目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることが、いま単独者のなすべきことではないのか。そうわたしは自身に言いきかせるしかありません。
—-『視えない死』、それは視えないからといって抽象的な記号ではありません。私という単独者の想像力が遙かにとらえる濃厚なリアリティなのです。」と戸惑いながら語る。

 最後の方の章では次のように語っている。
「『私は告発しない、ただ自分の〈位置〉に立つ』と述懐した石原に少し批判がましいことを書きましたが、あらためて読めば、⋯—彼は、二〇一一年という言葉の空洞をはっきり予感していたかのようです。そのことにギョッと驚き、石原の言葉に感謝したくなりました。」(辺見庸『瓦礫の中から言葉を』NHK出版、2012)

 

・鶴見俊輔『私の地平線の上に』「わが欠落(1)から
 戦後大衆思想史のなかで大いに注目する人として、度々石原吉郎の著作から紹介している鶴見俊輔は、その著で石原の「告発をしない」ことについて次のように触れている。

 また、ソ連体制や当時の全共闘の内ゲバに触れながら、石原の著作は社会主義的な運動のもつ困難を見すえさせるという力を持っているとも書いている。

「石原はスターリンの牢獄については証言をしても、告発をしないように自分を抑制する。それは告発する自分の行動の中にもう一つの専制国家への芽を見ているからではないか。」

 そこから政治行動のあり方につなげ、「政治運動が、その内部に告発を抑制し、証言に徹する立場を含むという可能性はあると思う。そのような政治運動は、どういう形をとるだろうか。」とし、さらに、自らの政治的な行動に対して、次のようにふりかえっている。

「自分で思想をもったと思うようになってから何十年も同じところを足踏みしているということを否定できない。—-(だが)足踏みが大切なのだという思想をきりすてたくはない。自分のもっているその停滞的な傾向に、新たに火を点じてくれたという意味で、石原吉郎の著作に感謝している。」

 そのように述べてから、石原の「窓」という詩を鶴見なりに解釈し、次のように述べている。
「物と物との連関の中に、人間の状況はあるので、そこから人間を見ると、理想主義的に、バラ色に人を見ることはできない。同時に、物の運動として見るから、やはり、味方に敵を見るとともに、敵となっているものも、その物質の運動として見るので、過酷な感情をもって対することはできない。そこから人を見、また自分を見るということは、政治上の発言にも、行動にも、ある種の奥行をあたえることになろう。
 —-量としての人類に対してうったえる政治思想ではなく、一人の人からもう一人の人に呼びかける政治思想がここにはある。」(『私の地平線の上に』「わが欠落(1)、『鶴見俊輔集8』筑摩書房所収」)

 いかにも鶴見らしい記述で、この稿に限らず『私の地平線の上に』は、考えさせる内容に富んでいる。

 

【参照資料・詩】
※石原吉郎の詩から
「窓」

生涯を終わるにあたり
きみはちょっとした実験をこころみた。
つまり わらったのだ。
いちはやく私は読みとつた。
その瞬間に
監視するものと
されるものの位置がすばやく入れかわったのを。
死が私を解放するまで
私はきみに監視されつづけた。
死にゆくものの奪権。
それはしずかに
しずかに
しかしきわめて苛酷に行われた。
きみの死が完全に終わったとき
はじめて私は立ちあがった。
いまは物でしかないきみをはなれるために。

私はもう一度監視者となった。
そのときはじめて知ったのだ。
きみはあの時から
すでに物として私を見ていたのだと。
死者が見た生者も
おなじく物でしかなかったのだと。
立ちあがった私の目の前に
ちいさな窓がひとつだけあった。
(石原吉郎「窓」『文芸展望』昭和49年春季号より)