日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎平気で生きて居るとは

〇先日、懇意にしている知人から次のようなお便りをいただいた。

「105日ぶりにようやく昨日退院することができました。といっても無罪放免ではなく、仮釈放にすぎませんが。医者の話によれば、せいぜいあと2年というところらしいです。まあ、84年も生きればそれも当然だろうと思っています」

 1月中旬に癌の手術で入院されたとき、6週間の予定と聞いていたが、その後連絡が途絶えて気にかかっていたので、何かホットする嬉しいものがあった。

 それとともに、「84年も生きればそれも当然だろうと思っています」に、〈そうだよな〉という思いもでてくる。

 肉親にかぎらず、身近な人の死の報せなども度々うけるようになってきたが、どこかで、冷静に受けとめている自分がいる。

 そのようなことだけではなく、現在渦中にある地震による災難も、なんとか自分のやれるところで支援していくことに吝かなものはないが、どこかに〈そういうこともあるよな〉という思いもある。

 原発被害や人為的な事故には、ただただ酷いなという思いが強く出てくるが、人の死を含めて地震などの自然現象には、先ずは受け容れて、そこから考えていこうとすることに無理がない気がしている。

 自分自身がそのようなことに直面したとき、どう受容していくのだろうかという疑問符はつくが。

 70歳近くになっても、心身ともによたよたすることが多い自分自身の課題として、引き続き考えていきたいこととして、強く印象に残っている正岡子規と良寛のエピソードに触れる。

 

〇良寛:災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候   是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ

 良寛71才のとき、1828年10月新潟県三条市を中心に大地震があった。そのおり被害が甚大であった地域の友人・杜皐へ見舞の手紙を送っている。この手紙には「親類中死人もなくめで度存候」などとも書いてあり、厳しい人間観察と無常観に裏打ちされたやさしさを感じさせるものとなっている。

〇正岡子規:随筆『病牀六尺』(1902年)より
「余は今まで禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(六月二日)
「 病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」 (七月二六日)

 子規31歳の1899年夏頃以後は脊椎カリエスからほとんど病床を離れえぬほどの重症となり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになる。苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け、母や妹の介護を受けながら後進の指導をし続けた。こうした地獄のような苦しみに耐えかねて、一度、自殺を企てたことがある。このような中で、日々の雑観を随筆『病牀六尺』に書き続けた。その年の9月に亡くなる。享年34歳。