日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎貧しい発想に押しつけられる (岩崎航の詩「貧しい発想」,ノヴァーリス「光に関する論考など)

〇それぞれの意味の世界へ
 岩崎航の詩「貧しい発想」の中の「貧しい発想を押しつけるのは やめてくれないか」という表現に出てくる「押しつける」という言葉に着目し、ブログなどに「貧しい発想法は、結局のところ、自分自身を縛ることになり、押しつけることになる。」と書いた。辞書では、「押しつける」:1、強く押す。2、無理にやらせる、受け入れさせる。と出てくる。(「広辞苑」)

 自分の中の貧しい発想で、無意識的に自分を押さえていることもあるのではないかと思っている。自分をみても、健康概念や「老い」に対する見方、さらに社会現象のことなどに、他からの影響はあるにしても、自分自身で勝手に縛っていることもあるのを思う。岩崎航の記録を見る限り、「管をつけてまで 寝たきりになってまで そこまでして生きていても  しかたないだろ?」というようなことは誰も言っていない。
 それまでの様々な関わりで培われてきた、岩崎航が作りあげてきた世間への見方である。17歳の頃まで、あるいは、この詩を書くまでのどこかの段階で、発想の転換が起ったのだろう。

 得体の知れないものからの「押しつけは」自分が作りあげた錯覚であると。そのように思っても、まとわりついてくる世の中の「押しつける」重い病との決別の詩だと思う。

 

「自由」とは、自分の思うように行動するということよりも、世間がどう思っているかにかかわらず、自分の足で立ち、そう思えないことには、拒否権を行使することにある。
 強い「押し付け」は、相手の拒否権を否定することによって、強引に受諾させようとすること、相手の自由を束縛しようとすることだから。

 私(たち)は、過去の経験の記憶に基づいて私独自の世界を構成している。今、目の前にあるものも、過去の自分の体験、知識などから見て、判断している。そのような蓄積がなければ、何が何だかわからない世界である。生まれたての赤ん坊のように。

 親をはじめとする、様々な人、ものやことに育まれて、認知能力の程度の有無にかかわらず、独自の意味の世界を張り巡らせている。赤ん坊から惚けが極度に進んだ認知症と呼ばれる人まで、芳醇な意味の世界を編んでいる。

「自分をみる」というのは、それまで身に着けた自分独自の意味の世界を見直すこと。そのことが深ければ深いほど、抵抗があり、葛藤を生じ、かなりきつい様相となる場合もある。その葛藤と向き合うことが成熟の元となり、別の世界が拡がってくることにもなる。

「聴く」という行為は、相手の意味の世界に入ること、子どもには子どもの、青年には青年の、お年寄りにはお年寄りの、認知症と呼ばれる人には、その人の意味の世界に寄り添うことである。
 どこまで出来るのか分からないが、そこに入ろうとすること、言葉としてよくきこえないところから、その人の意味の世界に触れようとすることから「聴く」が始まる。

 

今週のお題「雪」

 〈すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。〉
( ノヴァーリス「光に関する論考、断片集」佐治晴夫『宇宙の不思議』PHP文庫、1996より)

 

【参照資料】
「詩として発表される、あるいは書く詩は、見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないものに触っているのではないかと。言ってみれば、そうやって触っている部分を、むこうがわに向けてどこまでおし拡げうるかということが、詩人ひとりひとりのやっていることなんですね。そして、押し拡げれば押し拡げるほど、触れえないもの、聞こえないものの領域がさらに拡がる。そこが不思議なところです。
 その意味で、詩作品というものは、それが触っていることがはっきり伝わる部分と、よくわからないけれど何か不思議なものに触っていることだけは感じられる、そのむこう側の領域とのあわいに、スッと置かれている非常に不安定な創造物だという気がするんです。したがって、作者は一所懸命、言葉を彫琢しているんですが、読み手によって違う読み方をされる可能性があるのは当然ということにもなる。」(大岡信『詩とことば』花神社、1980より)

「何か自分ではハッキリ形は判らないが、心の底から衝動的に盛り上がってくるものが感ぜられてくる。言わなくちゃ居られぬやうな、そんなものが盛り上がってくる。この声を大事にすると、自ら自分の中で完結されていた今までのものを乗り超えてゆかずには居られぬ。」(加藤楸邨「新しい俳句の課題」『俳句研究』昭和14年8月号より)