日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「子どもに迷惑をかけたくない」の感情について

〇長生きして辛いなんていう社会は寂しすぎる
​ 6日のブログやFacebookに「知人の死去や入院に触れて」の文章を投稿したところ、パプアニューギニアに暮らしている友人N氏から次のようなコメントをいただいた。「まさに超高齢化社会の日本の現実であり、大きな問題でもあるように思います。うちもそうですが、子どもに迷惑をかけたくない。他人にも、って。いつからそのようになってきたのでしょうかね。どこに問題があるのかも、考えたいとも思っています。が、他の国はあまり、そのような事はないようです。パプアニューギニアでもあり得ない。長生きして辛いなんて社会は寂し過ぎる。」

「長生きして辛いなんて社会は寂し過ぎる。」まさにその通りだと思う。
「子どもに迷惑をかけたくない。他人にも、って。いつからそのようになってきたのでしょうかね。」これも、素朴で真っ当な疑いだと思う。

 

 迷惑の語源・由来:「迷」は本当の道にまようことを意味し、「惑」は途方にくれてとまどうことを意味する。両方の字が示すように、この言葉も本来は迷いとまどうことを意味する仏教語である。
 昔は、迷惑の原因が他人の行為でも自分自身の行為でも、この語は用いられた。次第に、他人の行為によって自分自身がどうしたらいいか困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化していった。

 迷惑について、迷惑行為や迷惑メールなど、嫌なイメージを感じるが、「子どもに迷惑をかけたくない」というのは、相手に「迷いとまどうこと」をさせたくない、余計な心配をかけたくないというような感情からのものもあるだろう、親の介護の例をあげながら、様々なニュアンスの迷惑をみていく。

 

 私は八年前に、九十歳を超える妻の両親と暮らすため出雲市に移住した。義父は他の人に迷惑をかけたくないとの気持が強く、娘である私の妻には早くから委せていたが、私に対してはだいぶ気を遣っていた。その頃の父は日常的な行為も困難になり、入浴や排泄などで介助しようとすると、心理的な負担感と「自分一人でやれる」との頑張りで遠慮することが多く、危険な場面も出てきていた。

 その時点での父はかなり困難な状態にあると見ていたが、父は身辺のことは援助なしでもまだまだ自分で「やれる・する」と思っていたようである。この頃の父は日常的に歩行が困難になりはじめ、転んだりしたときにすぐに助け起こすのだが、父の「すまないなー」と言うその気持は素直なものだと思うのだが、相手への心理的な負い目と、自分への不甲斐なさが混じって、精神的な負担感が増していったようである。

 それまで10年近く介護などの仕事をしていて、ケアされる方からは、遠慮のようなものはあっても迷惑をかけたくないというような感じはなかった気がする、身内で介護することとの違いを思っていた。
 当然自分の方でも、義父母の介護をしていて、遠慮はあっても迷惑というような思いは全く出てこなかった。

 私と義父とは血は繋がっていないし、娘婿とか男同志ということもあるのか、しばらくギクシャクした関係が続いた。だが徐々に、打ち解けた関係になっていき、少なくとも私に対して遠慮するようなことはなくなっていったと感じている。「すまないなー」というような言葉も聞かれなくなっていった。

 入浴や排泄の介助するときに、心身ともに全面的に任せてくれているかどうかは、身体に伝わってくる感触で、ある程度とらえることが出来るので、義父が心底任せてくれるのかどうかが伝わってくる。
 身内に限らず、そうなったときから、単なるケアされる・する関係をこえるような何かが活性化するような気がしている。

 

「子どもに迷惑をかけたくない」という表現ではあっても、その迷惑の意味合いはかなり違ってくると思う。
 そして、心底任せることができない(甘えることができない)関係、迷いながら戸惑いながらも、よりよく生きていきたいと願っている人同士の、心の分かち合いがなされていない、そこまで踏み込んだ関係ができていないことで、負担感のある表現になっていくのだろう。

 以前、ブログ「わえいうえを通信」に次のようなことを書いた。
【「めいわくかけてありがとう」ということばがある。元日本フライ級チャンピオンのプロボクサーからコメディアンに転身した、「たこ八郎」の口癖で自らの“座右の銘”である。歌人・福島泰樹氏のお寺にあるお墓で、そこに平仮名で「めいわくかけてありがとう」と書いてあるそうだ。
 世間では、何か重大な問題が起こると、えらい人たちが「ご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ありません」と深々と頭を下げたりするが、シラーとした印象のときが多い。
 たこ八郎の、「めいわくかけてありがとう」には共感を示す人もいて、よく取り上げられる。私も面白いと感じている。どのような分かち合いなのだろう? ただ、妻に対しては、面と向かっては言わないが、そのような感情が出てくるときも、たまにあるような気がする。(ブログ2015.02.10より)

 たこ八郎の場合は、気をかけてくれ、心の交流があった人々への、たこ流の衒いのある感謝のことばではなかったのか。

 

【参照資料】

○徳永進『野の花あったか話』「迷惑かけて、ありがとう」より

 「迷惑はかけとうない」「家で療養するとみんなに迷惑かけるです」「早う逝きたい、迷惑かけとる」。臨床で放たれる「迷惑」という言葉。その言葉を受け取るたび、私たちは身動きが取れなくなる。「そんなことないよ」「迷惑なんて思ってないよ」「大丈夫だから」と返しても何の変化も生じないし、何の力にもならないのを知っている。

 「迷惑」という言葉そのものが悪いのか、とさえ考え込む。「迷い」「惑う」。いや、生きてるということは迷い、惑うことだからそんなに悪い言葉とは言えないのに、「迷惑」と発声されると肯定の響きは消え去り、否定語の権化とさえ思えてくる。「手ご」ならいいか、と惑う。「手ごかけてすまんなあ」なら否定語の響きが弱い。ただ、「手ご」は鳥取の方言かも知れない、と迷う。辞書を引いてみる。「手児」とあって、「幼児、赤ん坊、少女、おとめの意」とある。違う。やっぱり方言か。手伝う、という意味の「手ご」。でも、言葉を変えてみても、気持ち、心は変わらない。赤ん坊だって、皆の手を煩わせながら育ち迷惑のかけっ放しだと思うのに、なぜか本人も回りもそのことを「迷惑」とは言わない。大人になって病に伏したり、老いて食べること歩くこと排泄(はいせつ)することが自分一人でできなくなったり、死を前にしたりすると、「迷惑」という言葉が湧いてくる。赤ん坊も老人も死も、人生の中のそれぞれの季節のひとつなのに。

  そんな疑問を大阪で、哲学者の鷲田清一さんにぶつけてみた。ボクサーでコメディアンのたこ八郎の墓碑にはこう刻んであると鷲田さん。「迷惑かけて、ありがとう」。「迷惑」の向こうにお互いの心の変化を私たちがどう想像できるのか、そこが問われているんだろう。
(朝日新聞中国共通版 2013年1月26日掲載)