日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎家族のようなその他の関係

〇知人の死去や入院に触れて
​ 6月末に逝去された知人二人の様子について、以前から、癌のことや体調がすぐれていないことなど三人の友人からメール連絡を受けていた。友人からは、親身になって心配している様子が伝わってきて、連絡をしていただくのはありがたかった。

 同時期に友人が急遽入院されたと、娘さんからメールを受けた。私にとっては想定外の出来事で、先ずは、この機会にじっくりと静養していただき、なによりも体調が回復されることを願うのみであった
 娘さんの丁寧で簡潔なメールから、友人の奥さんや家族のことにも気持ちが動くのを感じた。同時に、私にできることは何かなど、いろいろな考えることがあった。
 幸い回復されて退院されたと連絡を受けて、一先ずホットしている。
 どちらにしても、お互いに高齢化に伴っていろいろなことが生じてくるので、自らの心身と、ほどほどに付き合っていくことになる。

 

 福祉関連の活動をしていたこともあり、当事者だけではなく、同時に家族の苦労も感じてはいた。
 8年前から90歳過ぎの妻の両親と暮らすようになり、より一層、認知症、重度障害、重い病気、高齢化により極度の衰えをしている家族を抱えての暮らしは、大層困難なことだと感じている。

 家族だけに負担が生じないように地域社会も関わって見ていくという趣旨の介護保険制度ではあるが、自分や身近なもので何とかするというような家族意識も根強くあり、それが阻害要因になっていたりすることも多い。

 老人施設に入所していた晩年の母は、「早く死にたい、こんなんで生きていてもしょうがない」とよくもらしていた。主になってみていた兄や妹に様子を聞くことや、時折見舞いに訪れる私からみても、その状況を見ると、このような状態で生きているよりも、早く母の希望通りになったらいいなと思うこともあった。

「どうせ死ぬのなら楽に死にたい。痛みだの、息苦しさだの、動悸だのはごめんだ、安楽に死にたい」と願うことも分かるような気がする。

 だが、私の母を見ていて、身体的な痛みもあるが、醜い姿をさらしたくないという思いと、子どもや他の人に迷惑はかけられないというような意識が混ざっていて、身体的な痛みより心の痛みが強くあったようで、見るからに苦しそうであった。


 また私の意識も、母のことを心配していることもあるとは思うが、母のそのような姿を見せたくない・見たくない、施設の人にあまり迷惑はかけられないというような気持ちもあった。

 福祉関連の活動で、そのような状態の人にも関わってきたが、そのような気持にはなったことがなく、ひたすら楽になることを願うのみで、ごく身近な人とはだいぶ違うなと思った。義父母に対しても比較的冷静にとらえていたと思う。

 私にとって母親は、どんな状況にあっても、私に対して終始変わることのない気をかけてくれた人であり、支えてくれた人だと思っている。
 そのことと、晩年の母への見方とはどのようにつながるのだろうか。私にとって、親子とは、家族とは、親しい間柄とは、どのようなものだろうか。

 また、親しい人同士による、あるいは様々なコミュニティによる、直接には血は繋がってはいない、その他の人たちで織りなす家族のような関係にも関心があり、考えていきたいと思っている。

 

【参照資料・詩】
○長田弘『詩ふたつ』「花を持って、会いにゆく」より。

「花を持って、会いにゆく」
春の日に、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、
どこへもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。

そう知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生で最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、私は信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

春の日に、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

(長田弘『詩ふたつ』「花を持って、会いにゆく」グスタフ・クリムト (イラスト)、クレヨンハウス、2010より)