日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎朝鮮で生まれた母、育った義母

〇母と朝鮮
 私の母は、1919年に朝鮮忠清南道公州郡の郵便局官舎で出生した。母の父は一家で朝鮮に移住し、そこの郵便局を見ていく人として配置されたらしい。ところが、その当時スペイン風邪が世界中で猛威をふるっていて、その渦中で亡くなり、幼児の頃の母を伴って岩手に引き上げてきたという。

 スペイン風邪は1918年から全世界に流行し、感染者6億人、死者5000万人と記録されているものの、中国における感染死亡統計が排除されていることから、実数は軽く死者1億人を超えると見られている。これは人類歴史上、最大の死亡をもたらした最悪の疫病であり、第一次世界大戦を終結させた大きな要因だったともいわれている。

 1910年に日本の強制的な韓国併合があり、1919年になると3・1独立運動がおこり、その後の朝鮮の展開に大きな影響をあたえる事になる。日本による朝鮮統治の基本方針においては、紆余曲折はあったが、実質日本による植民地支配は終戦まで続き、太平洋戦争の中ではより厳しくなっていった。また、3・1独立運動は、朝鮮の歴史上、まがりなりにも近代化の道が開かれたとも言われている。

 

 この10年の主だった動きを記録していく。
 日本の韓国併合下の解釈は様々な立場からなされている。私にそれを判断するほどの知識もないし力もないので、直感的に頼ることが出来ると思った、武田幸男編『朝鮮史』(山川出版社)、旗田巍『朝鮮史』(岩波全書)、金達寿『朝鮮』(岩波新書)山辺健太郎、『日本統治下の朝鮮』(岩波新書)などを参照して私見を述べる。

〇1910年に、韓国を併合した日本は朝鮮総督府を設け、総督に朝鮮支配の全権をもたせた。総督は陸海軍大将がこれに任じ、初代総督には陸軍大臣寺内正毅が就任し、武断政治を施行した。いくつかの施策をあげる。
・警察と憲兵とを統合し、憲兵の指導下に治安をとり締まった。
・朝鮮人の結社、政治的集会、野外の多人数の集会の禁止、言論機関の解散。日本の御用新聞以外、朝鮮文字の新聞の刊行は許されず、政治的発言の道は完全に抑えられた。
・武断政治が露骨に横行し、もっぱら威圧により朝鮮人を屈服させようとした。それは、1919年の3・1事件によって朝鮮人の全国的反撃をうけるまで仮借なく行われた。
・土地調査(1910~1918)により、農村にたいする土地の収奪。林野の収奪が行われた。


 これが、その後に続く大きな問題だったのではないかと思い、少し詳しく見ていく。元来、朝鮮には土地の近代的所有がなかった。土地所有を証明するに足る記録は整っていなく、共同所有地が多く、土地の自由な売買や土地所有の安定性は著しく妨げられていた。この状態に付け込んで、9年間かけて、かなりの土地や林野がとり上げられた。

「土地調査は近代的所有権を強力的に成立させ、それによって日本人の土地取得は保証されたが、大多数の農民は生活の地盤を奪い去られた。耕地も山林も失った人々は、新たに地主と小作関係を結ぶか、故郷を捨てて放浪せねばならなくなった。農民の手から離れた土地は、何よりもまず国家の手に集中され、その一部は東洋拓殖会社その他の日本人の土地会社や移民に安く払い下げられた。国家の強力な保護の下に、日本人の大農場が生れた。」(旗田巍『朝鮮史』より)

 

 故郷を捨てた多くの農民たちは、北方の人々は主として中国・満州へ、南方の人々は日本へと安価な労働力として流れでた。その数は、第二次世界大戦の終了までソ連、アメリカなどの各国をも加えると、約7~800万を数え、日本には今もなお50万以上といわれる在日朝鮮人が暮らしている。その多くは土地調査によって土地を奪われた人々であり、その子孫にあたる人々である。

 このような武断統治であるとはいえ、あるいは、そうであるゆえに、様々な民族的抵抗や労働争議、衝突があったが、どちらかといえば自然発生的であった。それが大きな民族的抵抗運動として起ったのが1919年の3・1独立運動であった。その規模や、その後にもたらした影響は、朝鮮の民族独立運動にとって一つの画期的な分水嶺をなすものであった。

 

 日韓併合と前後して中国では清朝がたおれる辛亥革命があり、1917年には、第一次世界大戦さなかにロシア革命が起こり、1918年に第一次世界大戦はおわり、この年に、日本では米騒動がおこるなど、世界的に民衆運動や民族自決主義の波が高まっていた。など国際的な影響もあっただろう。

 独立運動の宣言書は、朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが骨子となっている。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。運動は京城から朝鮮北部に波及し、その後南部に及んで朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持をはかり、数しれぬ朝鮮人を殺害した。一方日本の世論は、一部の人が独立運動への理解を表明しているが、マスコミはじめ三一運動を暴動とみなす論調が圧倒的に強かった。

 

「三・一運動は失敗に終わったがそこにあらわれた朝鮮民衆の動きは巨大であった。彼らは指導者の意図を乗りこえて、日本の支配をくつがえすために自力で勇敢に戦った。日本の武力は結局これを鎮圧したが、日本はこの巨大な力に脅かされた。日本はいまや単なる武断政治では朝鮮統治が不可能であることを知った。三・一事件によって総督が更迭し、日本の朝鮮統治方針は大きく転換し、従来の武断政治に代って、いわゆる文化政治が採用された。その文化政治にはもとより限界はあるが、そのような転換を余儀なくさせたほどに三・一事件の力は大きかった。」(旗田巍『朝鮮史』より)

 

 1925年には朝鮮共産党が結成されるなど、国内外における朝鮮人による独立運動、反抗運動は、日本の敗戦まで根強く続けられた。
 第二次世界大戦の終結で、日本からは解放されたが、勝利した連合国である米ソによって、三八度線を境として、北朝鮮と韓国に分断されて現代まで続く状況をつくりだした。

 1919年8月に、斎藤実が総督となり、武断政治から文化政治に転換し、憲兵警察に代わって普通警察になり、朝鮮文字の新聞の刊行を許すなど、極めて狭い範囲内ではあるが、朝鮮人の政治的発言の道を開くようになった。

 

【斎藤実:第3代 朝鮮総督(1919年8月13日 ― 1927年12月10日)イギリスの植民地研究の専門家である、アレン・アイルランドは斎藤について次のように述べている。「1922年の朝鮮においては、反日の過激論者を除けば、斎藤総督に対する世間一般の評価は次のようであった。総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。」とある。(Wikipediaより)】

 私の母によると、岩手県出身の斎藤実の総督に伴って、岩手から一家が移り住んで、そこで生まれたという。幼いときで後知恵であろうが、自分の父親や斎藤実については尊敬の念を懐いていた。(※時期的な整合性が若干ずれているが母の記憶ではそうなっていた)。
 義母の一家は、移住したときは普通警察になっていたそうだ。義母の父親は、恰幅のいい方で、京城での交通整理などで大層目立つ名物巡査だったというような話を、嬉しそうに語っていた。