日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎義母の経歴、短歌など

〇義母のこと「五十年前に書きたる脱走記刷りて配りぬ今語らねばと」
 義母は大正5年(1916年)9月7日 島根県八束郡の小原家の次女として出生。両親の仕事の関係で朝鮮の京城(ソウル)に移住、そこで育つ。昭和11年3月京城女子師範学校卒業後、朝鮮各地で小学校の教諭として活動。

 昭和18年11月に、島根県立松江商業学校卒業後、朝鮮殖産銀行に就職していた伊藤忠一(同年齢)と結婚。終戦に伴って、朝鮮元山から2歳未満の長女と義理の妹などを連れて島根県に引き揚げてくる。
 昭和22年4月から島根県の各地で小学校の教諭として活動。昭和37年3月に、夫の転勤に伴って退職。その後、家の暮らしを支えながら、書道、短歌の勉強を本格的に始める。

 夫の定年を機に現在の出雲市湖陵差海地区に居を構える。家の庭では、花や野菜を育てていくのを楽しみにする。短歌では各方面から様々な賞をいただき、晩年になるまでの大きな生きがいになっていた。
 70歳のときに、般若心経の書写をし、表具・表装を趣味にしていた夫と掛軸を制作、二人の法事などには、床の間にそれをかけている。80歳のときに、現在ブログに記録している手作りの小冊子『元山脱出』を制作した。

  平成24年12月、目が不自由になりグル―プホーム「はなんばの里」に入所。目が不自由になったことには、勉強熱心で読書の好きな母にとって大層つらかったようだが、はなんばの里では、職員や主治医に支えられ、多くの仲間と楽しく穏やかに暮らしていた。我慢強い母の性格から、あまり痛みや辛さを訴えることはなかったのだが、高齢ゆえの衰弱がすすんでいたようで、平成26年9月28日に逝去した。享年99歳であった。

 

〇元山脱出時の記憶から作った短歌もあり、小冊子には記載されていない数首を載せる。いずれも、80歳過ぎての詠歌である。

・闇を待ち陸路逃げ来し日は遠く月の光を抱きて眠る(平成10)

・大暴風(おおしけ)に三十八線沖を漂いし脱走船の長き長き夜(平成11)

・引き揚げし博多の駅にリュックごと窓より汽車に押し込まれたり(平成13)

・引き揚げんと肩に喰い込むリュック負い月光怖れ直に歩みき(平成14)

・安らかな余命送りいん吾子抱く我を撃たざりしソ連の兵は(平成15)

・地下壕に赤子抱きしめ息殺す婦女暴行兵の靴音迫る(平成16)