日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎価値の遠近法に照らして、必要なものを絞り込む。

〇断捨離と価値の遠近法
​ 福祉関係だけでなく、高齢化社会や老いの暮らし方に関する会合で、断捨離のことがよくテーマになる。

 特に高齢化した親と同居している人や地元に長い間根付いている人の跡継ぎなどには、使わないもの、使えないものがあふれていて、勝手に処分するわけにはいかず、併せて自分自身の老後についても、いろいろと考えることになる。

【断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。基本的にはヨーガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くという。

 断=入ってくる要らない物を断つ。 捨=家にずっとある要らない物を捨てる。 離=物への執着から離れる。(ウィキペディア:Wikipediaより)】

 

 なるほど。だが、モノのこともあるが、頭の中の記憶、パソコン上のデーター、各種記録などにもその考え方を応用したい。それも大きな課題だが、先ずモノから始める。

 妻の私に対する軽い不満感に、「(どちらでも)いいよ」との返事がある。
特にモノについて処分するかどうかを問うときに分かりにくいと迷うようだ。

「この服古くなったので棄ててもいい」「この靴履かないからゴミに出していい」「この道具使わないのだったら処分していい」などと聞かれると、そう言われてもいいものの場合がほとんどなので、「いいよ」と返事する。ところが「貴方のいいよ、は分かりにくい」、「処分していいよ」なのか「処分しなくていいよ」なのか分からないと言う。表情からも。どちらかというと選択権を一任しているので、いいようにしてくれとの場合が殆どだが。

 これについて考えてみた。やはりどこかに「捨てるのはもったいない」という観念が根強くあるのではないか。まだまだ使えるのではないかと。そこに、様々な素材を集め、組み合わせ、創造性と機智を添えて、器用に自分に必要なものを生み出していくプリコラージュ・ブリコルール(手仕事職人)の考え方がえらく気にいっている。

 

 数年前まで、出雲の義父母の家で一緒に暮らしていた。その家の家庭菜園には道具置場があり、そこには義父母が揃えた各種道具類、資材、肥料・種などがふんだんにあり、中途半端に使っていたものが多かった。こんなものを何に使っていたのか分からないものもあった。暮らし始めて8年になるが、苗や種、有機肥料以外、殆ど買ったことがなく、あるものを工夫して使いこなしている。そういうことも、面白いし楽しい。だが、処分したほうがいいものが多い。

  また、書籍や資料類、記録文書になると、手つかずの状態であった。そこで、少しずつ整理をし始めていた。

 義父母が亡くなり、ほとんど処分し家も売って、神戸に引っ越ししたのが4年前。だが、自分たちのいろいろなものも増えてきている。

 身軽になる目的は、余計なものをそぎ落とし、風通しを良くし、自分にとって大事なことを際立たせることである。現在は様々なことが雑然としていると感じている。

 鷲田清一が提唱している「価値の遠近法」の考え方に照らせば「1、絶対必要なもの。2、どちらかといえば必要なもの。3、端的に必要ないもの。4、全く必要ないもの。」に分けることができるだろう。

 私にとって身軽になるとは、適度の伐採で、光や風が行き渡ることで樹木がほどよく育っていくように、できるだけ1と2に焦点を合わせた生き方をしていきたいと考えている。老い先も見えていることもあり、真面目にやろうと考えている。

【参照資料】
※価値の遠近法についての鷲田清一「絶対になくしてはならないものを見分ける」よりよく言うのですが、わたしは「教養」や「民度」ということについて、次のように考えています。なにかに直面したとき、それを以下の四つのカテゴリーのいずれかに適切に配置できる能力を備えているということです。まず、絶対に手放してはいけないもの、見失ってはいけないもの。二番目に、あったらいい、あるいはあってもいいけど、なくてもいいもの。三番目に、端的になくていいもの。なくていいのに、商売になるからあふれでいるもの。そして最後に、絶対にあってはならないこと。

 繰り返すと、絶対になければいけないものと、あったらいいけどなくてもいいものと、端的になくていいものと、あってはならないこと。いろんな社会的な出来事や人物に触れたときに、大体でいいから、この四つのカテゴリーに仕分けすることができているというのが、教養がある、あるいは民度が高い、ということなのです。わたしはこれを経済学者の猪木武徳さんにならって「価値の遠近法」と呼びたいのですが、本当の意味での市民としての教養とはそういうことで、それが、市民性があるということだと思うんです。
(鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』(角川oneテーマ21)、角川学芸出版、2012)より