日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎安曇野地球宿訪問記1、2、3

〇20日から2泊3日で安曇野地球宿を訪問した。

 かねてから行きたいと思っていての実現で、幾人かの知人の歓待を受けて、とても素晴らしい時間を持てて、泰子共々とても嬉しかった。また、様々なことを考えさせてくれた。

  地球宿での感想を手短にいうと、日々の暮らしに根差した生活実感と、遠慮気兼ねなく話し合える仲間に恵まれていること、その生活を支えてくれる地域の人々・風土に溶け込んでいること、地球上のどんな人たちとも繋がり、仲良く暮らしていこう、共に生きていこうとする素朴な理想が一つに溶け合って、魅力ある広場になっているとの印象を受けた。

 地球宿を含めた人の繋がりが、地域社会づくりの一つのモデルとなっていくようなことも少し感じた。

 

 ・安曇野地球宿のこと

 安曇野地球宿は、2002年増田家の第1子「風」が生まれたばかりの東京町田時代、悦子さんの「私は生産のある暮らしの中で、子どもを育てたい。」との一言から始まる。

 2004年の4月に信州安曇野での暮らしがスタート。越して3日目に畑にラディッシュの種をまき、1ヵ月後に食卓にのぼった。その時の悦子さんの嬉しそうなラディッシュのような明るい顔や自宅で育てた野菜を調理する悦子さんの楽しそうに作る料理はグッと美味しくなることなど、望さんの農に関わる原動力となる。

 そして、安曇野に来て始めた農の仕事が、人が生きていくうえでの礎となる喜びと思うようになり、2005年3月には米づくりに挑戦。

 同時に望さんのだれとも仲良く共に生きていこうよという「安曇野地球宿プロジェクト」という構想を、やれる範囲で開催していく。

 第2子「光」も生まれ、増田一家の生産のある暮らしとそれを支える仲間、地域の人々が横糸となり、望さんが描いていた理想が経糸となり、着々と地球宿という織物ができていく。

 その過程で、半農半Xを目指している仲間も増え、地域の人々との繋がりも確かなものになっていき、2007年に、築80数年の古民家がみつかり、仲間と改築をすすめ、そこで安曇野地球宿を始めるようになる。(※以上地球宿のブログから編集)

 

 このブログから、一つの構想が実現していくときの初々しい様子が伝わってきて、早く訪れてみたいと思っていた。

 来てみて、その後の風土に根付いた生産のある暮らしからの生活実感、仲間との繋がりや地域社会の人々との確かな触れ合い、地球宿を訪れる人々との交流、素朴で明るい理想がバランスよく展開して、その初々しさに厚みと深さをましていっていることが、今度の訪問で伝わってきた。

  夕方、増田家の新築中の建物に案内してもらう。そこでは、望三郎さんと悦子さんは描いたり口を出したりするだけだ。実際に作っていく人は、フランスでもうすぐ子どもが生まれるのを楽しみにしている慶太棟梁、Wwoof(ウーフ)で来ている諸国の人、地球宿の強力なスタッフ健太郎君やつながりのある職人さんたちだ。

発注者と業者という関係ではなく、繋がりのある人たちによってつくられていく。

これは地球宿という構想が成り立っている縮図のようなものでもある。地球宿の古民家もあまたの人の支援と交流で、現在の趣のある広場になってきているといえるだろう。

 

・松本地球宿構想

 当日の宿泊者はUさんと私たちだった。Uさんは現在松本市で茶房を経営していて、部屋があるので、地球宿のようなものを始めたいとのことで、友人を連れて(泊まらずに帰られた)見学がてら相談に来ておられた。

 私たちと同年配の彼女は、身だしなみが素敵な方で、理想(夢)に燃えているのに触れて、爽やかな感じがした。また、私たちと同年配の人が夢を実現させようと動いていることに、こういうのもいいなと感じた。結局、松本地球宿としてスタートすることになった。

 その時の話で、望三郎さんの地球宿構想も沖縄のゲストハウス「海と風の宿」の成田正雄さんとの交流から生まれたもので、各地に地球宿ができたらいいなという話も面白かった。 私の知人には、理想を求めて紆余曲折された人も少なからずいる。

 私も関わっている知人のHPに、R氏やM氏の投稿があり、トルストイの晩年、ロシア・ユートピア、コミューンの話題などもあり、このようなことを考えているのだなど読むのを楽しみにしているし、違った角度から考える糸口にもなる。

 私自身は滑舌が悪く足腰もよたよたしていて、心もとないけれど、心の榾に沸々と燃えようとしているものを感じている。その辺りのことも考えての今回の訪問である。

 

・若いスタッフ

 25年程前、私はあるコミューンで青年たちの世話役をしていた。私が43歳、望三郎さんは21歳であり、その後8年ほどの関わりだ。その頃、望三郎さんと切磋琢磨していた青年たち(今は40歳代半ば)が安曇野に根付いていて、地球宿の活動にも何かと支えになっている。この仲間たちの存在が大きいなと思った。

 特に綱領や規則、約束があるわけでなく、緩やかでありながら、しっかりと心の繋がりがあり、遠慮気兼ねなく共に考えていける仲間だ。

  現在、地球宿は望さんと27歳になる健太郎君の常任スタッフと1か月単位のボランティアスタッフたまちゃんがいて、私たちの世話をしてくれた。2日間の動きを見ていて、健太郎君の存在が大きいなと感じた。彼がいるので、望さんも思いっきり動けるのだろう。

 彼は、望三郎さんやその仲間たちの動きをよく見ていて、ゆくゆくは自分たちと同年代の人たちで、このような場所を作っていきたいなどの抱負を語っていた。

 

◎安曇野地球宿訪問記2 

 21日の昼間、安曇野三郷小倉を散歩しながら、いくつかの農場を訪ねた。気持ちの良い空気の中、丁度桜が満開の時期であり、至る所に見事な景観を見せていた。

・おぐらやま農場訪問

 松村暁生さんのおぐらやま農場を訪ねる。15年程前に、私の知人の中で、まず、暁生さんがこの地で農場を始めた。その農場や安曇野の風土に魅力を覚え、以前の仲間や増田一家などが移住してくるようになり、今の状況になっている。

 後で分かったのだが、立派に見えた建物が倉庫で、こじんまりした倉庫と思ったところが自宅だった。増田家も新築中で、友人たちが、次は松村家だというような話をしていた。

 農場を案内していただき、そこでの同年輩の知人のYさんが仕事をしていて、少し話を交わした。出雲で妻の両親と一緒に暮らしていたことを伝えると、Yさんは、奇妙な団体に関わったのが理由でいまだに実家では快く受け入れてくれないこともあり、この地を選んだということだ。私たちの場合は、親や親族から歓迎されていたので、あまり実感はなかったのだが、そのようなケースも多いのだろうなと思った。だが、表情からは、生き生きしておられるように感じた。

  おぐらやま農場はWwoof(ウーフ:お金のやり取りなしで「食事・宿泊場所」と「力」そして「知識:経験」を交換する仕組み)のホストになっていて、このシステムの可能性を描いている。安曇野に限らないが、高齢化している農村地帯における地域社会づくりに齎していくような可能性も感じる。

  農場は炭素循環環境を用意することが、作物たちに一番喜ばれる道ではないかと、農産物を食べてもらう人たちも喜ぶ道ではないかと考え炭素循環農法で作っているそうだ。

 農場の生産物の一つ、リンゴの栽培では「本づくり栽培」といわれる品質本位の栽培方法を取り入れている。現在のリンゴ産地では「わい化栽培」という人の管理しやすい栽培方式が多い。その辺りのことも聞いてみたかったが、おそらく、自然界や生物の本来持っている力を最大限に引き出すことを願っているのだろう。

 暁生さんの農、農業に一生をかけている姿に触れて、逞しさを感じた。

 

『安曇野発!農に生きる仲間たち』によると、暁生さんの農業運営の原点は、宮沢賢治『農民芸術概論綱要』、トルストイ『イワンのばか』、テーマは「一介の百姓になりきる」こと。とある。

『農民芸術概論綱要』には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

  われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」

 このような賢治の理想のフレーズが綺羅星のごとく紡ぎだされている。暁生さんの言動から、その原点が根付いている芸術的センスと明るさを覚えた。

 

 ・のうまん農園、津村農場訪問

 のうまん農園の加納一家とは、10年ほど前、鈴鹿市の同じ賃貸マンションに暮らしていた。まだ子どもたちが小さく、よく行き来していて、お会いするのを楽しみにしていた。

 ピンクの壁の良く目立つ家で、隣は津村孝夫さんの家だ。農場を一渡り案内してもらう。辺りは風光明媚なところに桜が満開になっていて、農場経営は厳しいようだが、このようなところでの暮らし、子どもたちのことを考えると、素敵なところだなと思った。

  夜に3人の子どもを連れてきて、郁代さん手製の美味しケーキを戴いた。

 小さい子どもたちを預かったことがあるが、当たり前だが皆大きくなって微笑ましかった。女の子二人は、全く覚えてないようだが。

 

・増田農場訪問

 見晴らしの良い温泉の帰り、増田農場に案内していただいた。

 畑一面にブルーベリーの苗木が整然と植えられていて、隣の一面に明日からジャガイモを植え付けるそうだ。米、小麦、エゴマ、豆類、蕎麦、夏冬野菜など約2町歩ほどあるらしく、無農薬、適当農法で自給率は8割近く、夏はほぼ100%という。

 初めて米作りをしたとき、草刈機で大怪我をし、悦子さんが小さな子どもと望三郎さんを抱えて奮闘したというような記事を思い出しながら、話を聞かせてもらった

 地球宿での食事は、とてもおいしい。男スタッフ二人の腕前はかなりのものだ。野菜中心食生活の私たちは満々足である。健太郎君は、この時期は、しばらくフキ料理が続くらしいので、少し困っていたようだが。

  この農場があることで、地球宿の食卓を潤し、田舎暮らし、農体験のできる宿となり、地域に根ざした宿となり、望三郎さんのバイタリティあふれる活動の原動力となっている。

 

※。『安曇野発!農に生きる仲間たち』安曇野フォーラム編集・発行、2010。「半農半X新しいライフスタイルの提案」とあるこの書は、安曇野という地区にとどまらず、地域社会づくりを考えていくときの大切にしたいことが散りばめられている。また知人たちの執筆もあり、その様子が伝わってくる。

「編集後記から:みんなが集まると何かが生まれます。繋がりの良さです。塩見さんの半農半Xの講演の後このままで終わらずに想いを形にできないか そこで始まったのがこの冊子作りです。土に根ざし 額に汗して地道に働く素敵な人たちが安曇野には多く移り住んでいます。

 畑の野菜も光が当たらなければ育ちません。人も一緒です。各人に光を当て想いを語る繋がりの場 おのおのが花開き実を結ぶ。一つの花も美しいですがそれが集まれば花園になります。この冊子が繋がりの場になれたら幸いです。

 安曇野に花が咲き 微生物 小動物 みんなが平和に暮らせる地でありますように願います。」

 宮沢賢治『農民芸術概論綱要』から

「序論」

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい

 もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい

 われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

 この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

 われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 「農民芸術の興隆」

……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた

 そこには芸術も宗教もあった

 いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い

芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した

 いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである

 われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ

 いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ

芸術をもてあの灰色の労働を燃せ

 ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある

都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』『宮沢賢治全集 第十二巻』筑摩書房、1967より)

 

◎安曇野地球宿訪問記3 

 私はあるコミュニティで40歳過ぎた頃から10年ほど人事や研修の役についていて、20歳代前後の青年たちの世話もしていた。

 その中の何人かは安曇野に移り住んで、農場経営、教師、大工などの仕事に就きながら、安曇野地域に溶け込んでいる。みな40歳代半ばの働き盛りだ。

  地球宿2日目の夜に7,8人集ってきて、コミュニティ時代の話で盛り上がった。研修などで私が話したこと、人事的なことで相談された時の発言などに焦点が当たり、あれはどういうつもりだったんですか? どのように決めていたんですか? 等、和気藹藹の中での総括だ。

 挙げているときりがないので、二つほど紹介。

 当時から望三郎さんは自他ともに認める拡大マン。あるとき彼に対して、拡大よりも自己革命が大事。具体的には毎朝きちんと蒲団をあげること。と言われたことを出していた。

 また、皆いろいろなことで悩む、つまるときがある。その時に、「マアー、別海にでも行くか?」と声をかける。何をアドバイスしたらよいのか分からない時、北海道の大自然の中で暮らしたら開けることもあるだろうという、一見無責任な決め台詞だ。

 みな、素直でまじめなので、そんなんで結構開けたりしたそうだ?

 

 ・若者たちの成熟する機会

 印象に残ったのは、コミュニティにはいろいろな問題があったと思うが、若い同年代の人たちと切磋琢磨しながら、あのような場で随分鍛えられ今の自分たちがある。と期せずして言っていたことだ。

 あのような場の特徴をあげると、寝食を共にしながらの生活、生産のある暮らしの中での様々な体験、日常的に考える研修機会がある。などとなる。勿論このような中で窮屈に、嫌に感じた人もいるだろうが、今回集まった人たちは、それが大きなことだったと捉えていた。

 相互扶助・相互支援的な地域社会づくりの大きな課題の一つに、子どもを育てること、若者たちの成熟を支援することがあると思っている。

  前日に望三郎さんと、江戸時代後期になると私塾とよばれる塾が盛んになり、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、松下村塾(山口・吉田松陰)、適塾(大阪・緒方洪庵)など個性的な私塾が数多く存在した。そこで20歳代の若者たちが育ち、その中から、明治維新及び日本の近代化を支えて立つ人材が多く育っていった。

 この地に、そのような学びの場、切磋琢磨の場ができないものだろうかというような話をした。

 それと共に若者だけではなく、ときには誰でも日常の営みを離れて、じっくり考える機会、自分を観察する機会が必要ではないだろうかというような話もした。

  内容は考えていく余地が沢山あるだろうけれど、彼らが育ったコミュニティでは、特別講習会や研修機会とともに広がっていった。私の知人たちもじっくり向き合いたいときには、そこに参加したり、内観研修所に行ったりしている。

 意欲的な活動を展開しているアズワンコミュニティは、研修機会を大きな柱にしていることで、広がっているのだろう。

 地域社会づくりには、このような「学びほぐす機能」「内観的機能」を培っていくことも大事ではないかと考えている。

 

・福祉・保健・医療機能について

 2009年から悦子さんは地球宿の仕事を離れ、介護、ホームヘルパーの仕事に就いている。高齢者など大変困難を抱えた人たちへのお世話に気持ちが向かっているそうだ。様々なことを体験して、いろいろなことを思っているという話を聞かせてもらった。

 現代社会では、福祉・保健・医療の体制も大きな課題となっている。安曇野のような高齢化が進んでいる農村地帯ではなおさらである。

 私が会員となっている精神障害者支援グループ「ふあつと」は各職種、各職場を離れて、定期的に様々な事例を検討する機会を設ける活動をしていて、出雲市でかなりの実績をあげてきている。とにかく自職場では、忙しいこともあり、なかなか検討しづらいものである。

 このようなことも、地域社会の中での横のつながりができていくことも大事だと思う。

  自然の豊かな安曇野を訪問して、安曇野地球宿、ウーフホストーおぐらやま農場、半農半Xの農に生きる仲間たちの繋がり触れて、これからの課題として感じたことを二つ挙げてみた。

 

・望三郎さんの政治家活動

 私が望三郎さんの誕生日にFacebookに浅薄なコメントをしたことを気にかけてくれて、政治活動についての話をした。

 私はよい政治家であるかどうかは、①地域社会の総意をくみ取る力、②和解力、③聴く力、の3つのレベルで考えている。

 政治活動とはだいぶ違うが、1昨年に地区の自治委員(よろず世話人)をしたことがあり、そのときも3つのことを意識していた。

①  地域社会の総意をくみ取る力

政治家の仕事は、地域社会の人々が心地よく暮らすための課題を見つけ、話し合いで実現の方向に誘うことだ。そのために、多数決や声の大きさに左右されずに、ほんとうに必要なことは何かと探っていく洞察力と嗅覚が欠かせない。極端な言い方をすれば、私の願望や欲求では一切なく、地域社会の願っている総意である。

②   和解力

 話し合いで課題解決の方向を探っていくが、人にはそれぞれの言い分がある。その言い分の和解調整術にたけていることと、対立的になりようがないしたたかさが必要になる。対立は対立の連鎖をうむか、せいぜい我慢を強いることになり、後に禍根を残すだけだ。

③   聴く力

 政治家の仕事は、自分の意見を主張するより、異なった言い分の調整力である。そこで大事なことは、自分と違った言い分を聴く力となる。そこから始まるのではないだろうか。

  望三郎さんが政治活動を始めた頃、ブログを拝見していたが、対立的であり言う方に力が入っているような気がして、以上の大事なことがあまり感じられなかった。

 だが、最近の動きを見ていると、対立では根本的な解決の方向にはいかないと思い始めているようで、話をお聞きして、これからどんな風になっていくか楽しみになってきた。

 健太郎君は、政治家望三郎さんは、この一年大きく変わったと言っていて、よく見ているなと感じた。地域での期待度はかなり高いというような話を、いろいろな方から聞いた。