日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎東日本大震災 次代に繋ぐ

〇遺族代表の挨拶から
 情報化社会で様々なニュースがはいってくるが、関心の向かないことはすぐに忘れるし、関心を覚えても身近に感じられないと、やがて風化してしまう。

 東日本大震災についても、今の暮らし方を見直す座標軸としてとらえたいと思っても、日常ではとんでいることも多い。

 昨年、福島の知人宅を訪問したときに、漁業関連の仕事をしていた知人から震災時の話を伺った。近くに石油コンビナートなどもあり、小松左京の地球沈没のイメージだったそうで、明るい性格と話しぶりで、かえって迫力を感じた。

 次の日、いわき駅から第一原発のある広野を通って竜田駅まで常磐線が開通したばかりで、乗車した(今年3月に全線開通)。無人駅も多く、途中黒いシートに覆われた瓦礫、緑のシートに覆われた放射線量の多い瓦礫の山が遠近にあり、閑散とした街並みとあいまって寂しげな感じが残った

 その後知人は、瓦礫処理に積極的に関わっていたのだが、癌になったと聞くと、直接には関係ないらしいと聞いても、何かがもぞもぞと動き出す。 

 ここにきての様々な報道に、改めて目頭が熱くなるような場面や考えさせられることが度々ある。死者何人とか、行方不明者何人と数字が出るが、そこには、それに深く関係する、一人ひとりにとって、よそからは推し量れない思いを抱えた多くの人がいる。

 また、厳しい暮らしが長引いていることで、仮設などで体調を崩す避難者も多く、これまでも3200人以上が「震災関連死」と認定されている。地域や住いの再生、再建など復興への道のりは険しいようだ。

 原発事故の影響による除染作業や中間貯蔵施設なども進んでいなくて、福島県外に避難している人も4万7千人以上いると報道されている。

 地元の新聞の一面に、「(行方)不明者なお2584人」とある。この人たちの親族や繋がりの深い人たちの心中は、やるせない思いでいっぱいではないだろうか。

 

 話は飛ぶが、度々取り上げられることに、第二次大戦時の海外への遺骨収集がある。それに対する私の見解は、関係者が亡くなられた地へ行って線香をあげて手向けをすることは分かるのだが、誰のものだが曖昧な遺骨収集に、人々を煩わしてまですることに、その気持ちがもう一つ理解できなかった。

 考えてみると、一人ひとりにとって、人生に区切りが付かずに、次の段階に移れない人もいると思う。ある人にとっては、気持ちの整理が付かず、宙ぶらりんの状態なのだろう。

 島根県から、私も関わっている福祉分野や保健、医療分野の人が支援に行き、戻ってきてからの絞り出すような報告に、心を動かされることも多々あった。

 昨日の東日本大震災追悼式での遺族代表の「ことば」を始め、関連する書籍や報道に触れて、あまたの人たちがそれぞれの方式で動き出している。次に繋がっていくような息吹も感じる。せめて気持ちだけでも、そこに加わっていきたいと思っている。

 

・「宮城県遺族代表の菅原彩加さん(19)のあいさつ」
 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

 小さな集落でしたが、朝、学校へ行く際すれ違う人皆が 「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声を掛けてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には既に遅く、地鳴りのような音とともに津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。

 しばらく津波に流された後、私は運良くがれきの山の上に流れ着きました。その時、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見るとくぎや木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが、私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母の事を助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 そんな体験から今日で4年。
 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。すべてが今もまだ夢のようです。

 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることができます。

 震災で失ったものはもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることもないと思います。しかしながらこれから得ていくものは自分の行動や気持ち次第で、いくらにでも増やしていけるものだと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいのものを私の人生を通して得ていけるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。

  最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
(山陰中央新報から転載)

 

【参照資料】
中井久夫編著『1995年1月・神戸―「阪神大震災」下の精神科医たちー』みすず書房、収録論文、パトリシア・アンダーウッド「心的外傷反応に対処する」から一部抜粋。

 「自分が助かったことに罪悪感を感じることも怒ることも、興奮するのも普通の反応である。それを一人ひとりが認め、また人によって違うということを認めなければいけない、そして普通に食べたり笑ったり眠ったりした方がいい。私たちは多くの物を失った。皆が忘れてはならないのは、もう決して一月十七日以前には戻らないということ。そして私たちにはそれを乗り越える力があるということ」

 (四)地震のごとき災害がランダムである事実を受容することがポイントである。災害を起こさせることができる人などいるわけはなく、誰が死傷するか、資産を失うとかが予め決まっているわけでもない。それはいうまでもないことなのに、人々は、自分がこれまでの生涯になしたこと、なさなかったことをめぐって罪悪感に苛まれることが少なくない。逆に立腹することもやはりある。はたまた、損害をこうむったこと、こうむらなかったことに関して、罪業感に苛まれることも憤慨することもある。負傷しなかった者、軽傷で済んだ方、損失をこうむらなかった者が、おのれの運のよさに非常な罪業感を持つことが少なくない。この感情をacknowledge(認知し評価)することが大切である。

 (五)災害以前の世界がそっくりそのまま戻ってくることはありえないという事実を受容することも大切である。個々人は治癒するであろうし、地域社会は再建され、正常に復するであろうが、それは「新しい正常」なのである。(六)個々人は、その人ができるだけ正常な日常のスケジュールを保つ必要がある。たとえば通勤、通学、食事の支度、犬の散歩など。できるだけ早く日常生活上のいろいろな決断をしていくようにする必要がある。これがコントロールの(事態を支配しているという)感覚をさずけてくれる。多少なりとも生活にルーチンの部分を加え、それぞれその決意を下せるようになる時期が早ければ早いほど、心的外傷の統合開始の時期が早くなる。

(七)最後に、個々人は、日々の生活の中で何でもいいから楽しみをみつけるようにするべきである。むろん自分以外の被災者が負傷したままであるとか、避難所に残っているときにそうすることは格別困難であろう。しかしながら、楽しむこと(enjoyment)には治癒力がある。治癒過程を促進するのである。

 この話の締めくくりとして、回復には”日にち薬”(それなりの日時)が必要なこと、時々(外傷体験が)ふっと再浮上して意識に上るのは正常なこととを強調した。(以下省略)」