日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎受容はすべての出発点だと思う

〇思うままにならない苦しみをのりこえて
 私たちはさまざまな観念、価値観をもって暮らしている。

 何があろうとも、起こってくる感情はそれとして、一端はその状況を受け止め、平静な状態を保つことから物事に対処していけるのではないだろうか。実際の暮らしの中ではなかなか難いですが。

 自分の思惑に居着くことなく、その思い方を棚上げして、ものごとをありのまま「受容」し、直視し、状況の変化に沿って柔軟に考え、動いていくことが大切だと思っている。

 私は、「生老病死」が四苦として、「根源的に人間は苦しいものだ」という考えに違和感を覚えていた。調べていくと、仏教で説く「苦」とは「思うままにならない苦しみ」という程の意であることが分かってきて、いくらか納得したことがある。私自身は、思うままにならないというよりも、生老病死はもともと人について回るもので、種々のものに支えられ生かされてきて、何らかのバランスが崩れた時に起ってくる現象だと思っている。

 この世は「苦」であると聞くと、日本語の苦・楽の対立語としての「苦」を思い浮かべてしまうのが一般的でないだろうか。言葉は多義的であり、使い方、使う人などで全く逆の意味合いになったりするが、この「苦」のとらえ方の違いは、それぞれの人生観に違いをもたらすのではないかなとも思う。

 私たちは、だれもが、無意識のうちに受け入れている時代の価値基準によって、考え方の影響を受けている。健康な時にはほとんど意識されない「四苦」という概念も、障がい・老・病・死などに直面した時に、不意に「困ったもの、避けたいもの」として立ちあらわれてくる人が多いのではないだろうか。

 

 この世界の成り立ちについての観方は、その価値観の形成に多大な影響を及ぼす。近代科学技術の驚異的な発展とともに、人々は、「思い通りになるのがよい」「できるのがよい」「進歩するのがよい」という観方を助長し、自然現象に対してさえ、人力でなんでも征服できるのではと、倨傲ともいえる意識を育ててきたのではないか。人類が永い間育み培ってきた自然現象への畏怖もすっかり忘れて。

 福祉関連の活動をしてきて、精神障がい者、難病を抱えた人、高齢者など、比較的重度の人々に関わってきた。その過程で、「受容」の仕方が、一人ひとりの生き方に大きな違いをもたらすと思うようになった。

「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップがある。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、障がいを抱えたり、病気になったり、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離がますます大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。しかも、「できるのがよい」「思い通りにするのがよい」「自分のことは自分で何とかする」というような考え方が大きな価値観になっている場合、それはその人の活力の源にもなるが、自分の現状を冷静に見つめることの阻害要因ともなっていく。

 

 私は死も含めて、困難を抱えたときの受容の仕方について、大雑把に類型化すると三つのことを考えてきた。一つは、今の「あるがままの自分」を受け容れられて、起こっていることをきちんと捉え、考えてみることが出来るようになる人。二つは、ある種のあきらめ・断念によって、揺れ戻しがありながら、「あるがままの自分」に立ちかえり、その時々の状況を受け止められる人。三つめは、うつ・反発・失望など現れ方は人それぞれだが、今の自分の状態を受け止めることが難しい人。

 ケアする側から見ると、一と二の場合は、共に歩んでいくだけである。三のケースの場合は、ケアする・されるにかかわらず、とても辛いものになってゆく。このケースの場合は、何からでもいいから希望や期待を見出すことからはじまる。それは他から見たらささやかに見えるものかもしれない。それも見つからない場合は、どんな些細なことでもよいから、日々の生活の中から喜びを見出すこと。そこから、あるがままの現実の自分を受け容れることにつながっていく。これは各自で見出していく性質のものであるが、それへ誘う気風のようなものはお互いの関係性の中で創り出していけるのではないだろうかと考えてきた。

 これは心構えのあり方や知識というよりも、私たちの無意識のうちに身に付いている価値観から滲み出てくるものだろう。私は生老病死に限らず、自分に起ってくる様々なこと、人と人との関係の持ち方、人間にはどうしようもない自然の脅威、等々あらゆる事象に、まず、現実をあるがままに直視して受けとめる「受容」が出発点になると考えている。