日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「時空遍歴」を読んで(現在このHPは閉じられている)

〇リンク先のHP「ビジョンと断面」に掲載されている連載「時空遍歴」について
「時空遍歴(25)」までを通して読んでみた。(現在このHPは閉じられている)

  知人に紹介されて閲覧を始めたHP「ビジョンと断面」だが、最初の頃、小説以外はもう一つ馴染めないものがあった。徐々に、その鋭敏で素直な感性に共感を覚え始め、最近の連載「時空遍歴」を楽しみにしている。「時空遍歴」は(10)「いつまで過去にこだわるのか―」(2014/8/29)に、

・「後ろ向きに歩みながら、遠ざかっていく<あの景色>をあれこれ考え記述してきた」
・現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかりと肯定する。
・こうして私はこのページのタイトルを「時空遍歴」と名づけ、そこに過去―現在・未来往還自在の境地を込めたつもりである。
とあり、この言明のように書き続けていると思う。

 

 連載は2014年6月の「《在った事》を《無かった事》と為す」というFさんのヤマギシズム運動、具体的にはジッケンチに参画するに至った経緯から始まり、離脱後の生活実感から得た感覚的根拠、ジッケンチでよく使われる、理念、理想、純粋贈与、特講、怒り、個別研などを、離脱後の暮らしの出来事と照らし合わせながら、埴谷雄高、E・ホッファー、ドストエフスキー「罪と罰」などの著述を援用しながら鋭い考察を加えていく。

 また、日常的に起こってくる、日々の暮らし、友人との付き合い、身内のこと、教え子、老い、死、災害、弔いなどで自分の内面に生じてくる戸惑いなどを含めて語られていく。

 昨年の12月からA・S・ニイルに触れて、子どもの育ちについて取り上げているが、最近の私の関心にも繋がってくることもあり、これは読んでおきたいなと楽しみにしている。

 昨年の座談にもつながるので、ニイルから、私にとって、深めていきたい印象に残った文章をいくつかあげてみる。

 

 【参照資料】
〇(18) 思いがけないA・S・ニイルとの再会から
・「暖炉の火で子どもがやけどするのではないかと心配している母親がある。母親はしょっちゅう子どもと火の間に割って入って、大きな声を出す。『ほら、やけどするわよ。』こうなると、火に対する子どもの態度は単純ではなくなる。複雑に入り組んでくる。母親と火が結びつくのだ。子どもは、実際に経験して、火に触れるとやけどすると知っているわけではない。知っているのは、母親が『やけどするよ』という大声を出すという事実だけである。もし母親が、子どもの小さい時に子どもの指を火の上にかざして、ほんのちょっとだけ熱い思いをさせていたら、彼は火についての真実を知り、火を創造的に扱えるようになっただろう。母親はやけどを恐れる。そして子どもは火を恐れると同時に、自分の自然な興味をねじ曲げる母親を憎むようになる。」(ニイル選集②「問題の親」13p黎明書房)

 

・「よく知られた精神分析家からきいた若い男のケースがある。この人は6歳のときに、7歳の女の子と性的な遊びをしているところを父親に見つかった。父親は力いっぱいムチで打ちすえた。このムチ打ちのために、少年は一生、臆病者になってしまった。青年はいつまでたっても、この幼い頃の経験を反復せずにはいられなかった。つまり無意識的にムチで打たれることを求め続けたのだ。・・・
 いま、私の学校にいる子どもの中にも『おちんちんにさわったら切り落とすよ』といわれた小さな男の子がいる。こういう恐怖心は恐るべき悪影響を与える。なぜかというと、恐怖心と願望はけっして無関係ではないからだ。去勢されるのではないかという恐怖心は、しばしば去勢されたいという願望となる。」(ニイル選集①「問題の子」132p)

・「子どもを打つのは、どんな場合でも憎しみの行為だ。ところが親は『私は子どものためを思って叩いているのだ』とこじつけている。親は、母親であれ父親であれ、私がおまえを叩くのはおまえが憎いからだ。わかったか。このろくでなし』と正直に言えばよいのだ。このようにいうほうが、『おまえを叩く私の方がもっと辛いのだよ』といってきかせるよりずっと害が少ない。正直というものは、いつも一服の清涼剤となる。
 私がこれまで相手にした子どものなかには、しつけのためにすっかりだめになった者が多い。しつけには、常に恐怖が含まれている。…しつけは憎しみの行為であり、その犠牲者を憎しみの人間にする。恐怖から解放されている子どもは、憎んだりはしない。」(同上「問題の親」33p)

・「私の仕事は、子どもを相手にする仕事だ。しかしその子どもは、ムチに対する恐怖や主への恐れによって善を教え込まれた子どもである。私の仕事は消極的な仕事である。というのも、それは教育解除、つまり教育を受けた者から教育を取り去る仕事だからだ。」(同上「問題の子」10p)(2014/12/1)

 

(19)ニイルの<理想主義>否定? から
・「結局のところ、原罪というものはあるのかもしれない、しかしそれは完全を求めるという罪である。あるいは理想を追求する罪といってもいい。アダムは善と悪の知恵の木の実を食べた。つまりアダムはみずから善と悪に基準を作って、その結果、道徳家および理想主義者になってしまった。理想主義は人類にとって<のろい>である。理想主義がこの世に不幸をもたらしたのだ。不道徳を生み出すのは理想主義である。子どもが自然に成長するのを認めないのも理想主義である。理想主義は、温室の中で子どもを育てようとする。(「問題の子」20p)(2014/12/11)

(20)教育への道は「表現」である・・・
・「指しゃぶりをやめたら自転車を買ってあげる、と息子にいった母親がいる。しかしこのかわいそうな男の子に何ができるというのだろう。指しゃぶりは無意識の行為である。・・・・・・おそらくこの子は、指しゃぶりよりはもっと幼い段階へ退行するだろう。教育への道は表現であって詰め込みではない。私はうんざりするほどこのように話してきた。一つの興味は充分に堪能されねばならない。」(「問題の親」48p)

・「『ほんの小さな子どもが、何かが目の前で動いているのに気がつく。自分の手である。そのうちに、この新しい発見に対して自分に何かができる、ということがわかってくる。つまり動かすことができるのだ。彼の次の願いは、これが一体どういうものなのか知ることだ。この発達段階の子どもには、あるものがよい物かどうかを確かめる方法は一つしかない。口である。そこで手を口に持って行こうとする。・・・』」(「問題の親」7p)(2014/12/23)

 

(21)利己主義の肯定(ニイル)と無理のない生き方
・「私は、高尚な動機というものを認めるのを拒否する。人々の魂を救いたいという神様のような願望とか、世の中をよくしようという決意、といったものを認めようとは思わない。私がこういうものを拒否するのは、こういう高尚な動機をもった人たちが、ひとりひとりの人の持つ自己興味を認めようとしないからだ。ほんとうに神のような人物には、きっとお説教をしているヒマなどないにちがいない。そういう人は、きっとミツバチを飼ったりキャベツを育てたりするのに忙しいのではないだろうか。」(「問題の子」198p)

・「私は、人生に対する自己興味の重要性を強調する。私たちはどのように合理化して反対のことをいおうとも、私たちはまずもって利己主義者である。もし自己興味は満たされないならば、どのような仕事もうまくいかないだろうし、いかなる義務も果たされないであろう。」(「問題の子」189p)

・「子どもに自由を与えれば、その結果悔い改めなど必要のない幸福な状態になるだろう。私は確信する。もし、コンプレックスを抱くことなく子どもが成長するならば、人類は『悔い改めたり改革したりしたい』という願望などまったくない男と女になるだろう。・・・彼らは自分自身の生き方をするだろう。そしてまた他人が自分自身の生き方をするのを認めるだろう。」(「問題の子」198p、2014/12/31)