○福岡伸一『生命と食』(岩波ブックレット、2008年)などを参考にしながら、「いのちと食べる」について考えてみる。
人は他の生物をいただくことで生きていける。生きるというのは食べ続けることであり、食わなければ生きられないという、人が生きるということの核にある事実である。そして、生きるためには、日々食べ物を補充しなければ生きていけない。
そのために、人々は安定的に食資源を確保するために、力を合わせて、様々な工夫、開発し、その中で、農業を発達させ、その安定的な確保が社会の大きな基盤となってきた。食糧を集団的に確保し、生き延びること。それが農業生産の大元にある。
そして、美味しく食べることの工夫、食文化の歴史でもある。つまり、栄養を摂るために食べ続けるということは生きることの基本であるが、それ以上に食べることと味わうことに、自分の生きることの確かさとか、生きることの意味がこの行為の中に凝集しているのではないかとの見方もできる。
自分の毎日の食生活、共食の文化、子どもの育ち、介護の食事の世話などをすること、美味しく食べるために力を合わせていくことを通して、そのように考える。
○私たちが食べるものは、穀物も、野菜も、肉も、魚も、もともとは他の生物の体の一部であり、人は他の生物を意のままに捌いて、その生物たちが蓄えたタンパク質や糖質をいただくことによって、いのちを保っていくことができる。
田に稲を植え、稲に実った穂から米をとり、調理してご飯になる。それを食べると、一部は自分の身体になる。
川や海の中では様々な生物がいて、それを食べることで魚は産まれ育っていき、人がそれを食べると、一部は自分の身体になる。
空気や水も日々私たちの身体を流れている。田も海も川も空気も水も、あらゆるものその一部が私たちの身体を流れている。
福岡伸一によると、「生命は絶え間なく分解と合成を繰り返す動的平衡の中にあり、命は流れである。その流れを絶たないために食べるわけで、お腹がすくから死ぬわけではない。食べないと流れが絶たれてしまう。そのために私たちは食べるのである。
そして、食べ、生きるということは、体を地球の分子の大循環にさらして、環境に参加することにほかならない。食物とは全て他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっている。」(※山口要約)という。
だから、自分の健康を考えるということは、環境のことを考えるということであり、環境のことを考えるということは、自分のいのちの健康を考えるということでもある。
そのために、人々は安定的に食資源を確保するために、力を合わせて、様々な工夫、開発し、その中で、農業を発達させ、その安定的な確保が社会の大きな基盤となってきた。食糧を集団的に確保し、生き延びること。それが農業生産の大元にある。
そして、美味しく食べることの工夫、食文化の歴史でもある。つまり、栄養を摂るために食べ続けるということは生きることの基本であるが、それ以上に食べることと味わうことに、自分の生きることの確かさとか、生きることの意味がこの行為の中に凝集しているのではないかとの見方もできる。
自分の毎日の食生活、共食の文化、子どもの育ち、介護の食事の世話などをすること、美味しく食べるために力を合わせていくことを通して、そのように考える。
○私たちが食べるものは、穀物も、野菜も、肉も、魚も、もともとは他の生物の体の一部であり、人は他の生物を意のままに捌いて、その生物たちが蓄えたタンパク質や糖質をいただくことによって、いのちを保っていくことができる。
田に稲を植え、稲に実った穂から米をとり、調理してご飯になる。それを食べると、一部は自分の身体になる。
川や海の中では様々な生物がいて、それを食べることで魚は産まれ育っていき、人がそれを食べると、一部は自分の身体になる。
空気や水も日々私たちの身体を流れている。田も海も川も空気も水も、あらゆるものその一部が私たちの身体を流れている。
福岡伸一によると、「生命は絶え間なく分解と合成を繰り返す動的平衡の中にあり、命は流れである。その流れを絶たないために食べるわけで、お腹がすくから死ぬわけではない。食べないと流れが絶たれてしまう。そのために私たちは食べるのである。
そして、食べ、生きるということは、体を地球の分子の大循環にさらして、環境に参加することにほかならない。食物とは全て他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっている。」(※山口要約)という。
だから、自分の健康を考えるということは、環境のことを考えるということであり、環境のことを考えるということは、自分のいのちの健康を考えるということでもある。